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【連載】植松聖に抗う 2

 事業所の建物が見えてくる。入口の前、隣家との間の狭い通路の奥にKさん(女性)が立っていて、わたしに気がついて影絵のキツネのようにすぼめた指先で手をふってくれる。「おはよー Kさん」 わたしは大きな声を投げる。「4月は有休つかいますので、お休みさせていただきますー もう来ないんでー」 「分かりましたー」とわたしは応える。それで満足したのか、Kさんは入口へ消えていく。Kさんを追うようにわたしも入口に入る。わたしの朝はたいてい、そんな具合に始まる。

 階段で二階へ上がると軽作業のフロアだ。すでに来ている職員や当事者と軽く挨拶を交わす。いつもノートにこまかい文字を書き連ねているYさん(女性)が片手を伸ばしてきて、わたしとタッチを交わす。奥のロッカー室へ向かい、荷物を入れると、そろそろ朝の送迎車が到着する時間だ。そのままテラスの外部階段を下りて迎えに行く。

 いつも助手席で日向ぼっこをしている犬のようにまどろんでいるОさんはまだ若い男性だ。「Оさん、着きましたよ」 車のドアを開けて、Оさんの身体ごしにシートベルトを外す。Оさんは薄目を開けて身体を起し、マスクを外してゆっくりと引きちぎり、涎のついたそれをわたしにくれる。リュックを手にゆっくりと車から降りたとたんにすたすたと歩きはじめる。急ぎ足でうしろを追う。

 玄関で靴を履き替えると、背中から下ろしたリュックと、脱いだ薄手のパーカーを床へ放り出して、Оさんは仰向けに寝ころがる。いつもの儀式だ。「はい、Оさーん」 両手を差し出すと、待っていたようにかれも両手を上げてくる。Оさんの両手首を迎えて身体をひっぱりあげる。立ち上がったОさんはリュックとパーカーを拾って、すぐ近くの男子更衣室へ入る。

 じぶんのロッカーの前でОさんは、ベルトに装着したスパイラルのキーチェーンの鍵を鍵穴に差し込むのだが、鍵の上下を誤るとそのままの姿勢で止まって待っている。「Оさん、反対だよ」 手首をくるりと回してあげると鍵がすっと入り、じぶんで回して扉を開けて荷物を仕舞う。鍵をかけ、それから更衣室内に他の人がいようが構わず電気を消して扉を閉める。隣の女子更衣室の電気も消して扉を閉める。

 最後にトイレだ。小便器の並んだ男子トイレに入ってさいしょに、決まって壁に付けられた非常時用の押しボタンを押すので、開け放たれたままの引き戸を閉めてから廊下側でこちらも事前に、非常ベルの停止ボタンを押し込んで音が鳴らないようにしておく。摺りガラスの小窓越しにぼんやりと写った影で動きを確認してから、こちらもボタンから手を放し、あとは扉の横に立ってОさんが出てくるまで待機。トイレから出てきたら、いっしょに階段を駆け上がって、他の人にぶつからないように注意しながら軽作業のフロアへ向かう。

 ここまでが毎朝のОさんの決まったルーティン。その間Оさんは、専門用語では反響言語(エコラリア)というらしい、以前に聞いたことがあるコマーシャルやニュースの文言、あるいはいま耳に入ってきた言葉などを何度も反復する独言を間断なくくりかえしている。

 もちろん、車椅子に乗っていても送迎車から降りれば一人で勝手に作業所へ行ける人もいれば、さらには自宅やグループホームから徒歩や自転車で通ってくる人もいるが、Оさんのように付き添いや介助が必要な人も何人かいて、職員が日替わりで応対する。その一人びとりにそれぞれ固有の、Оさんのようなルーティンや、決まり事や、注意事項などがある。

 Оさんにしても、仰向けの状態で手を差し伸べてもなかなか起き上がってくれないときもあれば、トイレに入って出てくるまでの時間の長短、表情、あるいはルーティンの間にときおりはさまってくるイレギュラーな行為など、そのときどきの体調や心理状態などで微妙に変化するものもある。それはまた、Оさんからの秘密のサインでもある。

 なんにしろ、これがわたしの週に五日間ほどの「日常の風景」だ。半年前だったら、じぶんがこんな「日常の風景」を送っていることなど、想像もつかなかっただろう。おそらく、偶然出会った知的障害などの事業所の送迎風景を遠目に見て、じぶんの理解からはほど遠い、どこか「異様な風景」としてかれらを眺めたかも知れない。

 けれど、いまのわたしにとって、朝から「有休取りましたー 帰りますー」と叫んでいるKさんも、独言を繰り返し床に倒れ込むОさんも、ありきたりな「日常の風景」の中の、ごく親しい人たちに過ぎない。特別な人たちでも、理解不能な人たちでも、ましてや「異様な人たち」でもない。こちらの言っていることを理解しているし、わたしたち以上に周囲をよく見て感じ、観察しているし、一般的な言語というツール以外でときにコミュニケーションをとれることがあることも知っているし、豊かでナイーブな喜怒哀楽の感情を持っていることも知っている。

 「いつもの儀式」と、わたしはОさんについて記した。けれど「有休取りましたー 帰りますー」と叫ぶKさんの行為も、独言を繰り返し床に倒れ込むОさんの行為も、通所施設という集団のなかへ入っていくためにかれらが奮闘している証(あかし)と言えるのかも知れない。わたしたちが通勤電車の中で元気が出る音楽を聴いたり、気分転換にあるく道を変えてみたり、頑張ったじぶんに特別なスイーツを奮発するのと同じで、かれらにとっては「すこしばかりハードルの高い」日常をやり過ごすための手段なのだ、とわたしは受けとめている。だから、そこには変調もあるし、サインもある。


 植松聖は「意思疎通のできない人間は生きる価値がない」と主張したが、言葉を停止することによって明瞭になってくるものある。言葉がときに「存在」の妨げになるのだ。その場合、言葉とは、わざわいであり、他人を支配し、屈服させようとする力である。「意思疎通に困難が伴う」人たちに対して、わたしたちはまず、それらをいったん放棄しなくてはならない。

 これからわたしは、知的障害者の日中の通所施設やグループホームでの泊まり勤務などに於いて、じぶんが日々体験していること、感じていること、考えていることなどを少しづつ書いて行こうと思っているが、それらはおそらく長年そうした福祉の現場で働いてきた人たちにとっては、ごく当たり前のありふれた話でしかないだろうと思う。しかしまだ日の浅いわたしにとっては、毎日が新鮮であり驚きであるのと同じように、福祉の現場を直接に知らない多くの人にとっても未知の世界であるはずだ。

 「見えなくなってしまった」オマタくんの世界を可視化することによって、見えてくるのは逆に「一般・健常者」のわたしたち自身の姿なのかもしれないという予感もまたしている。



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