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【日記】大阪・十三で北村皆雄監督傑作選を見る

 ふだんは梯子はしない。酒ではなく、映画や舞台や個展といったものだ。一日に何ヵ所もの個展を見て回ったり、日に二本三本の映画を連続で見たりする人がいるが、わたしにはあれはできない。ひとつでもうお腹がいっぱいになって、その日は牛の胃袋のように何度も反芻しておのれの唾液とともに発酵させ、得も言えぬ異臭をたぎらせるおのれの胃から立ち上る臭気に夢を見るのだ。だから、一日にひとつだけ。

 けれど稀に例外はある。先日15日に十三の第七藝術劇場で見た北村皆雄監督作品の二作品である。75年ぶりに蘇ったアイヌのキタキツネの霊送りに取材した『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』と、韓国南部のムーダン(巫俗)による未婚の死者同士を婚姻させるクッ(祭儀)に迫った『冥界婚』の二本のことだ。連続上映のどちらも強くそそわれる内容で、しかも滅多に見れる機会がないフィルムだったので、えいままよ、どちらも見てしまえ、となった。

『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』は前半、うつらうつらだった。なぜか強烈な睡魔にさそいこまれるのは、ひさしぶりの儀式に臨むアイヌの人々のやりとりや練習風景などが心地よく、これも作品への自然な反応だと勝手に得心して夢か現(うつつ)かを往ったりもどったりしていたが、いざ本番の場面になって覚醒した。

 わたしはアイヌの子どもたちの幾人かが「(キタキツネの)ツネ吉を殺さないで!」と大人たちに懇願することを心のどこかで望んでいたが、それは起こらなかった。もともと熊もキタキツネも、イオマンテという霊送りは狩猟で殺した獲物に対してなされるのではなく、親を殺されたりして幼い頃から人間の手で育てられ共に暮らしてきた動物のいのちを奪い去る儀式なのだった。だから上映後のトークの時間に監督に対して「これは動物虐待ではないのか」と質する観客がいた。たくさんの唄や踊りを捧げられ、花矢を放たれたツネ吉を丸太の柵から屈強なアイヌの若者が引き上げる。ツネ吉の語り) わたしは気を失ったのだろうか? その後のことはよく覚えていない。 ――監督の北村はコラムの中で記している。

 「神の国」では、人間と同じ姿でくらしを送っている動物の神たちは、「人間の国」へ遊びに行きたいと思うと、クマの神はクマの扮装、キタキツネの神はキツネの扮装に着替えてやってくるのだという。その道筋は「天」にある「神の国」から奥山に降り、源流から川を下って「人間の国」にやってくる。そこで動物自らが選んだ人の矢や鉄砲の弾を受けて、肉と毛皮を提供し、霊魂だけが来た時と逆の経路をたどって父母のいる神の国に帰るのだ。

 アイヌの人たちの神観念は一言で言うと<入我我入>という言葉で示されるのではないかと思う。<神>と<人>とが二項対立ではなく、< 神が我が身中に入り、我が身が神の中に入る>という即時的同一状態と考えており、神と我は不二、切り離せないのだ。イオマンテの儀式を通してアイヌの人々はカムイ(神)と一つになる。アイヌの人たちはキタキツネやヒグマ、シマフクロウに同化することで、神の国と自分たちの国とをつなぐのである。


北村皆雄「映画生活57年の中の『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』」

『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』パンフレットより

 つい先ほどまで動き回っていたツネ吉は毛皮を剥がされ、取り出された頭蓋骨は豪華なイナウで飾られる。そしてツネ吉の頭蓋骨を中心に輪踊りが始まる。ツネ吉の語り) 迎えるときも、わたしが喜ぶ歌だ。 わたしは村を守り、家を繁栄させたい。 わたしたちは神の国と人間の国の行き来を、何度もくりかえしてきた。 わたしたちは、また人間の世界を、楽しみに訪ねるでしょう。  ――殺され、飾られた頭蓋はわたし自身であり、いわば「いのち自身」である。共に暮らしてきた動物のいのちを痛みと共に奪うことによって、大いなるいのちとつながる。一方で無数の動植物のいのちを機械的に何らの痛みを伴わずに日々食しているわたしたちは、果たしてどんないのちとつながっているのか。物言わぬツネ吉の頭蓋骨はわたしにいのちの価値=世界ぜんたいの価値観の転換を迫る。花矢を放つアイヌたちは核兵器もアウシュビッツも生み出さなかった。


 そんな衝撃で、すっかり『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』に魅せられ、上映後にいそいそとパンフレットまで買い求めてしまったわたしであったが、続く『冥界婚』にはさらに打ちのめされた。ひと言でいえば、すごいものを見てしまった、という感覚である。

 遠洋漁業中に海に落ちて行方不明となった未婚男性の母親が慟哭する場面から映画は始まる。遺族から依頼されたムーダン(巫俗)と呼ばれるシャーマンの一団は、亡者のあの世での幸福を願い、失恋自殺をした女性の霊と男性との死後結婚(冥界婚)を執り行う、作品はその一部始終を記録したものである。

 こちらも上映後のトークの席でムーダンたちを「遺族の悲しみにかこつけた金儲けではないか」と糾弾した観客がいた。じっさい、親族で固めたムーダンの一団どこかは怪しげに見えるのだ。日本円で250万円という少なくはない金額で儀式(死者の魂を浄化してあの世へ送るシッキム・クッ)の一切を請け負ったかれらは、竹や色紙で亡者を送る儀式を彩るさまざまなツールをつくりあげる。あの世の蓮の花であったり、先祖たちが乗った霊送りの舟であったり、死者の霊が憑依する近親者が持つ竹竿(ソンデ)であって、それらはすべて最後に海岸で燃やされて灰となる。

 儀式は数日にわたり、その間に冥界婚があり、新郎新婦を模した紙の人形がじっさいに布団を共にし、また選ばれて竹竿(ソンデ)を手にした者には亡者の霊が憑依しトランス状態となってこの世を後にする悲しみに錯乱し暴れ出す。神降りた息子に近親者が詰問する。「おしえてくれ、おまえはだれに殺られたのだ。韓国人か? 〇〇の出身の者か?」 憑依した者は大きくうんうんと頷く。「やっぱりか!」 亡者の妹が泣き崩れる。「仇はきっととってやるから!」 しかし監督によればこの死因について警察が動いたということもなかったようで、監督いわく「ムーダンたちは依頼人たちの心情に寄り添った」ということになる。

 最終日、海岸に巨大なテントを張った霊送りの儀式は夜を徹して行われるが、途中でチップの増減をめぐってムーダンと父親との軽妙なやりとりがあり、土木監督風のいかついその父親もつづいてムーダンが歌うように語る亡者語りに涙を拭い、最後は賑やかな歌と踊りのエンターテイメントの怒涛のフィナーレへ流れ込むといった様相を呈する。夜が明けて、亡者の霊があの世へ旅立っていく場面は不思議としずかである。数日して海辺で賭け事に興じる母や妹たちは「こころが軽くなった」とすっきりとした顔をして語る。

「遺族の悲しみにかこつけた金儲け」といった批判など軽やかに吹き飛ばすような、長らくそしていまも被差別的な場所にいるムーダンたちのこれはいのちを賭けた生業(なりわい)であり、かれらの「芸」を必要としてそれによって集団的無意識に帰結していく人々とのいわば壮大なジョイント・コンサートなのだ。周囲をとりまく村の近所の人々も、そのエンターテイメント・ショーにこぞって参与する。

 死後結婚(冥界婚)についていえば、日本でも山形にムサカリ絵馬という古くからの風習がある。未婚で亡くなった死者のために、男性でいえば架空の花嫁が描かれた絵馬を寺社に奉納するもので、ムサカリ絵馬専用の絵師もいると聞く。

 わたしはこれらの話を上映後のトークで投げかけようとして先に監督に言われてしまったのだけれど、靖国神社の遊就館に若くして戦死した兵士のために母親が奉納したリアルな花嫁人形はムサカリ絵馬を継承するこの国の冥界婚のひとつの到達地点のようにも思える。つまり戦死という不合理な死が、「国家」や「天皇」といった観念に結びつくための「あの世の結婚」とも言える。だからこそ、靖国神社の遊就館のガラスケースに並ぶ花嫁人形たちに込められた思いは一筋縄ではいかない。

 日本の死後結婚(冥界婚)は靖国神社遊就館の花嫁人形に帰結する。いまだムーダンの生業がほそぼそと生きる韓国の地方ではかれらと依頼主の親族たちが一体となってあの世とこの世をめぐる壮大なエンターテイメントを繰り広げて終幕する。


 『チロンヌㇷ゚カムイ イオマンテ』と『冥界婚』で語られるのは、片やキタキツネのいのちであり、片や遠洋漁業中に亡くなった未婚男性のいのちである。そして一方はイオマンテという儀式によって、もう一方は死後結婚(冥界婚)という儀式によって物語られる。また前者はアイヌという日本の少数民族(先住民族)によるものであり、後者はムーダン(巫俗)と呼ばれる賤視されてきた被差別者によるものである。

 このような構造によって北村皆雄監督が語るのは、いのちの自由な飛翔、のような風景だろうか。上辺だけの価値観や民族や国家や制度といったものからこぼれ落ち、あるいはすり抜け、聖も俗もつきぬけてのびやかに飛翔するいのちそのもの、である。異なる二種の反芻物が発酵し臓腑から立ち上ってくるのは、意外にも湿った大地の土や干し草の香りにも似たふくよかな古酒の香りであった。


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