【連載】植松聖に抗う 1
小学一年生のとき、クラスに知的障害者(そのときは、そういう言葉は知らなかったが)の男の子がいた。「オマタくん」とぼくらは呼んでいて、きっとそれがかれの苗字だったのだろうけど、言葉はしゃべれなかった。ぼくたちはオマタくんの歌をつくっていっしょにうたったり、給食のときに牛乳瓶の紙のフタをとるのを手伝ったりした。小柄なオマタくんのお母さんは、ときどき学校へやってきて、いつも「ありがとうね、ありがとうね」とオマタくんと接するぼくらにお礼を言ってくれた。どうしてお礼を言うのか、ぼくらはよく分からなかったけれど、クラスにオマタくんのような子がいるのは別段、特別なことではなかった。
けれど小学三年生になって、オマタくんはぼくらの学校からいなくなってしまった。オマタくんのような子どもが通う別の学校へ転校したのだと、あとで先生から聞いた。オマタくんは消えてしまったわけではなく、ぼくらから見えなくなってしまったのだ。
現在、日本には109万人の知的障害者がいるという(令和4年 厚生労働省資料 ※以下リンク参照)。18歳以上の成人は54万人で、そのうち入所施設で暮らしている人は13万人。スウェーデンやノルウェーなどといった“福祉先進国”が国策として入所施設の全廃を打ち出し、アメリカでも閉鎖を完了する州が10を超えているなかで、先進国では唯一日本だけが、この入所施設で暮らす人の数が減っていない。
◆令和4年3月28日 厚生労働省障害福祉課 第25回「障害福祉サービス等報酬改定検討チーム」資料「障害福祉分野の最近の動向」(PDF)
弱者への強制的な隔離や分離による排除は、ナチス・ドイツの断種法がモデルの優生保護法、ハンセン病患者を閉じ込めるらい予防法、本人の同意なき「強制入院」が認められる精神衛生法(現・精神保健福祉法)など、ある意味、この国の古くからのお家芸と言える。これらの法律はすべて戦後まもなくつくられ、いまもその「弱者排除」の姿勢は根深い。
2022年、『障害者権利条約』批准後の初審査で、国連は日本政府に対し「隔離生活」と「分離教育」が是正されていないという勧告を出している。
参考までに『障害者権利条約』の第19条も、ここに引いておこう。
小学三年生のときに「見えなくなってしまった」オマタくんにその後、ぼくらはもう二度と再会することはなかった。オマタくんのような「ちょっと変わった」子が、小学校や中学校や高校のクラスに入って来ることもなかった。ぼくらはじきにオマタくんのことを忘れた。
全国にいる109万人という数を単純に47都道府県で割ると、一都道府県あたり2万3千人になる。2万3千人もの知的障害者がわたしの住む県でも暮らしているはずなのだが、かれらに出会うことはそれほど多くはない。たとえばまれに、電車の中で奇声をあげている人を見かける。「ああ、知的障害の人なんだろうな」と心の中で思うけれど、どう接していいか分からないし、なおさら交流することなどはほとんどない。うるさいのをすこしだけ我慢して、電車を降りたら、その人の存在はすぐに消えてしまう。
公園に集まり聞きなれぬ言語を大きな声で交わしている外国人のグループなども同じようなことかも知れない。理解できないもの、よく分からないもの、直接交流することがないものなどに対して、わたしたちはイメージだけがふくらむ。往々にしてそれは負のイメージであることが多い。見えなくなってしまったものは、負性を帯びやすい。そして集団のイメージの中で、ひとりひとりの「個」――その人がどんなふうに生きてきて、どんなことが好きで、なにを夢見ているのか、などといったもろもろは喪われてしまう。
「見えなくなってしまった」オマタくんに、もし何十年振りかに再会したとしたら、ぼくらは小学生の頃とおなじようにオマタくんといっしょに歌をうたって、牛乳瓶の紙のフタをとってあげるだろうか? それともオマタくんはもう、ぼくらのなかで「理解できない見知らぬ存在」に変わってしまっているだろうか?
2016年7月、神奈川県でひとりの青年が深夜の入所施設を襲い、入所者19人を刺殺、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。青年は入所施設の元職員で、意思疎通のできない者、言葉を発せない者を「世の中に不要な人間」として選んで刃物をつきたてていった。数か月前には当時内閣総理大臣だった安倍晋三宛ての手紙を自由民主党本部に持参し、そこには「日本と世界のために」「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」などと書かれていた。
この痛ましい事件のニュースに接したときわたしは、足元をすくわれるようなひどい衝撃を受けた。居ても立ってもいられなくなってその夜、車で深夜の熊野の山中をあてどなく朝まで走りつづけた。この国はとうとう喫水線を越えてしまったのだ、と感じながら。
その後、わたしは還暦まで3年を残して長年勤めた会社を辞めた。次に選んだのは、まったくの分野違いだったが、知的障害者の通所施設に於ける支援員の仕事だった。わたしはいま毎日、知的障害のハンデを持った人たちと触れ合い、かれらのトイレ介助や食事介助、また月に数回だがグループホームの泊まり勤務で入浴介助などを行なっている。還暦目前の新米スタッフだ。
わたしは植松聖になるだろうか。
知的障害者の事業所を選んだのは、それをじぶんに試したかったからだ。「わたしは植松聖になるだろうか」 ならない、という絶対の確信はない。わたしのなか、奥深いところにも、ひょっとしたら植松聖的なものが生きて、うごめいているかも知れない。そうであるなら余計にわたしは、わたしのなかの植松聖に抗いたい。
なぜなら、あのやまゆり園の事件は、いまやこの国のすみずみにまで広がった深い病理を象徴しているように思うからだ。わたしたちひとりひとりが殺された障害者であり、わたしたちひとりひとりが殺した植松聖である。
あの日、小学生のぼくらの前からいなくなってしまったオマタくんは、いまどこで何をしているだろうか。そんな気持ちを抱えながら、知的障害者施設での日々の体験や思うことを、支障がない程度にすこしづつ書いていこうと思っている。「見えなくなってしまった」オマタくんを、もういちどぼくらの教室にとり戻すための、これはいわば私的な試みでもある。
※ 犯罪の加害者等の実名についてはその公開について、一定の配慮が必要と思われるが、植松聖についてはウィキペディアも記しているように「植松聖は、積極的な掲載の意思を持って月刊『創』(創出版)へ実名で手記を寄稿しており、削除の方針ケースB-2の「削除されず、伝統的に認められている例」に該当するため」、実名のままにしておく。
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