劇団タルオルム『さいはての花のために』
2022年8月7日 大阪・日本橋 インディペンデントシアター2nd
椿は韓国語では동백(トンベク)、漢字では冬柏と書くそうだ。花が丸ごとぼとりと落ちる様子から斬首が想起され、江戸時代の武士は屋敷内に植えることを忌んだという話は、どうも後世のあとづけらしい。一方で椿は、厳しい冬の寒さのなかでも凛として咲き誇るその様子から「忍耐」や「生命力」の象徴ともされ、邪気を払う聖なる木ともされた。最古の神社ともいわれる奈良の大神(おおみわ)神社では毎年2月の卯の日祭において、邪気祓いのツバキの木でつくった卯杖(うづえ)が奉納されている。その椿が、ぼとり、ぼとりと足もとへ落下する。
大阪を拠点に在日コリアンと日本人有志たちがあつまって結成された劇団タルオルムの舞台を、大阪・日本橋のインディペンデントシアター2ndで見た。
『さいはての花のために』は日本の敗戦後、1948年のアメリカ軍政下において韓国・済州島で起こった島民虐殺事件(済州島四・三事件)を題材にしている。南朝鮮での単独選挙実施の強行に対して、南北が統一された自主独立国家の樹立を訴えた島民たちが蜂起したことをきっかけに、軍や警察、右翼の武装団体などが島の焦土化作戦を展開し、3万とも8万ともいわれる島民が虐殺され、村の7割が焼き尽くされた。古くから歴史的な敗者の流刑・左遷地であった済州島は、もともと朝鮮半島からも差別される土地であった。
その済州島と日本の大阪を結ぶ定期航路(阪済航路)の歴史は古く1922(大正11)年、尼崎(あまさき)汽船部という企業によって3月に定期開設されている。最初の就航船である初代「君が代丸」(669トン)は1891年オランダ製で、のちにソビエト連邦政府から購入した軍艦「マンジュール」(1224トン)を客船に改装した二代目に代わり、1945年にアメリカ軍の空襲で沈没するまで就航した。
朝鮮併合により日本の植民地支配が本格化したのが1910(明治43)年である。植民地朝鮮を足掛かりにして日本が北東アジア全域へ軍事的・経済的な勢力拡大をしていく過程で、もともと島外への出稼ぎが多かった済州島の人々が職を求めて阪済航路を利用して日本へ渡った。1930年代、男はゴム工、鉄工、自由労働、ガラス工、女は紡績工、海女などが主な募集内容であったという。
「大阪は在日朝鮮人にとって特別な地であり,その在阪朝鮮人の中核を形成していたのが済州島出身者だった。そしてそれを支えたのが阪済航路であり,その多くが第二君が代丸という一隻の船によって担われたのである」と、『近代日朝航路の中の大阪 ―済州島航路』(「白山人類学」12号 2009年3月)のなかで高成鳳は書いている。
大阪は「1925年には211万という日本一の人口をもつ世界有数の大都市であり,商業・金融の伝統的なセンターであるとともに,綿業・機械工業などの工業地帯を有するアジア最大の商工業都市であった。つまり20世紀前半に,世界資本主義システムがアジアで展開する上で,極めて重要な核のひとつ」であった。
近代日朝航路の中の大阪 : 済州島航路 (<特集>日韓境域のトランスナショナリティ : 済州人を中心に) PDF
そのような前史があり、日本の敗戦後も差別や貧困から済州島から日本への密航者が後を絶たず、さらに前述した済州島四・三事件から逃れて大阪の済州島出身者のコミュニティへ身を寄せ、そのまま在日コリアンとなった人々も多い。舞台「さいはての花のために」は、両親が済州島で(おそらく)殺され、母の親友が働く大阪へ密航してきた二人の姉妹を主人公としている。原作は大阪で生まれ育った在日二世の作家・金蒼生の2020年の小説『風の声』(新幹社)である。
幼いときに貧相な体を汚い船底に横たえ息を殺して日本へ渡ってきた姉妹は、ゴム工場などで顔を真っ黒にして働き、ときどき母の親友の家で食事を共にする。姉妹の記憶の底には山へ逃げて行って戻ってこなかった父親や、連行されていった母の弟である“飴おじさん”や、その弟に石を投げるふりをして罵れと言った悲しい母の姿が眠っていて、ときどきそれらの理由が分からない光景がおそろしい地下の怪物のようによみがえってくる。
黒一色のシンプルな舞台は過去と現在が交互に現れては消え、ときにその過去と現在が同時に、まるで見えない互いの手を探り合うかのように空をつかみ、つながろうとする。生きのびて大阪で暮らす姉妹と、おそらくもう死んでしまってこの世にはいない両親。あの世がこの世を侵食しているのか、この世があの世へとどきたいと願っているのか。どちからか分からないけれど、舞台の上ではそれが可能だ。
その儚いまぼろしが消え去るときに、赤い椿の花がぼとりと落ちる。こちらにぼとり、あちらにぼとり。ぼとりぼとりと数えきれない数の椿の花が絶え間なく落ちてくる。いわれのない死によって生を寸断された人々の数だけ落ちてくる。「さいはての花」とは、この世でもあの世でもない、宙ぶらりんの世界でいまだ生きたい、生き続けたいと願ってやまない椿の花で一面埋め尽くされた薄明の風景であった。死んでいるのでもない、かといって生きているのでもない。
姉妹を演じた一人、姜河那(カンハナ)さんはまだ20代前半、在日4世だと聞く。つまり彼女にとって、今回の舞台は曽祖父母の時代を演じているわけだ。日本でみずからの曽祖父母の時代を語れる若者はどれだけ、いるだろうか。わたし自身でいえば、曽祖父はどうも明治の初め頃の生まれらしいが、ふだんほとんど考えることのない遠いルーツの一人でしかない。100年、150年という歴史のなかにあって、在日4世の彼女と日本人のわたしは、何が違うのだろうか。
『門出の一人芝居「チマチョゴリ」』と題した、2019年1月9日夕刊の朝日新聞の記事がある。「大阪朝鮮高級学校に通う姜河那(カンハナ)さん(18)には、ふたつの「制服」がある。校内で着用する民族服のチマ・チョゴリと登下校時に着替えるブレザーなどだ」と紙面は伝える。1990年代頃から、朝鮮学校生が登下校中に乱暴されたり、チマチョゴリを切り裂かれたりする事件が起きた。大学生活を前に、俳優になることを夢見て、「チマチョゴリ」を題材とした一人芝居に挑んでいた。
その彼女はじつは2016年に韓国で公開された朝鮮人慰安婦を描いたチョ・ジョンレ監督の映画『鬼郷』にすでに出演して、故郷の村から日本軍によって何も知らずに中国やミャンマーへと連れて行かれ慰安婦とされた少女チョン・ミン役を見事に演じた。
多くの韓国民や在日コリアンらの寄付によって製作された映画は、韓国では累積観客数358万人を突破する大ヒット作になったが、日本では配給会社を通じての正式な公開に至らず、各地の自主上映会の形で全国をまわった。一部の日本人たちからは反日映画との批判を浴び、主役を演じた姜河那(カンハナ)さんについてもWeb上などで心ない書き込みもあったという。
「この映画は、政治的な目的や反日感情ではなく、他郷で亡くなった被害者たちの魂を故郷に戻し、一匙の温かいごはんを食べてほしいという思いから作ったもの」と、東京での上映終了後のトークショーで監督は語っている。(朝鮮新報 2016.11.25)
映画『鬼郷』も、姜河那(カンハナ)さんが一人芝居で演じた『チマチョゴリ』も、そして済州島から大阪へと流れる人々の歴史を描いた『さいはての花のために』も、たいていの日本人は知らないし、DVDがレンタル店の棚に並ぶこともない。
日本で在日の劇団員として演じつづけることの困難を思うが、同時に日本で在日の劇団員として演じつづけることの意義も思う。日本人であるわたしが曽祖父のことをほとんど知らない、その100年、150年の歴史を、この国に暮らす在日4世の若い彼ら彼女らが体現していることの意義だ。
劇団タルオルムをはじめて見たのは、今年5月に開館した京都・宇治市のウトロ平和祈念館でのオープニング・イベントで行われたマダン劇だった。マダン劇というのは広場(マダン)で行なわれる劇のことで、舞台とは異なり円形の広場をおなじ平面で観客が取り囲みながら、ときに演者が客を巻き込んで共に演じてもらったり、観客がやじをとばしたり、全体が混然一体となって進行するのが持ち味という。
ウトロで見たマダン劇が水平的な場(マダン)のひろがりを体現しているならば、大阪・日本橋のインディペンデントシアター2ndで見た今日の舞台は、垂直的な歴史の実時間を体現しているのではないか。深く昏いじめんの底から記憶は立ち昇って来て、天井から赤い椿の花がぼとりぼとりと落ちてくる。
そういえば、老木の椿は化けるという言い伝えがこの国のあちこちには残っているそうだ。新潟では荒れ寺に現れる化け物の正体が椿の木槌であったり、島根では牛鬼の正体が椿の古根だったという伝承があるという。今日の舞台の椿は物言わぬ石くれにでも化けるだろうか。
天王寺公園に隣接する統国寺では毎年4月に、済州島4.3事件の歴史を記憶し、犠牲者を追悼するための「在日本済州四・三74周年犠牲者慰霊祭」が行われている。「済州四・三犠牲者慰霊碑」と刻まれた石碑の土台部分には、済州島のムラごとに集めた178の石が慰霊碑を取り囲む。それらはまるで慰霊碑に寄り添った椿の花のようにも思われる。
ぼとりと落ちた椿の花から、物言わぬ石くれから、見えてくるのはこの国の100年、150年の失われた記憶である。
さいはての花のために、伝えたい。
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