屯鶴峯地下壕に「五分後の世界」を見る 【My Dark Tourism 奈良】
村上龍が1994年に発表した『五分後の世界』(幻冬舎)は、「1945年8月15日に敗戦を迎えなかった」日本のその後を描いた小説である。
日本は広島に続き小倉、新潟、舞鶴などへも原爆を落とされ、地上はアメリカ・イギリス・ソ連・中国に分割統治されている。人口がわずか26万人となった「日本」は信州の地下で超軍事国家=アンダーグラウンド(UG)として生き延び、連合国にゲリラ戦を継続している。
『五分後の世界』では地下の「日本」は規律正しい軍隊を核として、連合国を凌ぐような軍事技術さえ開発し、「古き良き日本文化」を誇りとする人々が描かれているのだが、歴史の反転によって現在を照射しようとした作家の目論見は理解できるにせよ、現実には沖縄をはじめとしたこの国の軍隊の末期の姿を知るわたしたちにとって、それらはもはや喜劇でしかないだろう。
そんな笑えない喜劇のような「アンダーグラウンド日本」を体験できる場所が、奈良と大阪の県境の山あいにある。奇岩の連なる景勝地として知られる屯鶴峯の地下に人知れずいまも眠る旧陸軍の地下壕である。
12月にしてはうらうらと暖かな日曜の午後、「NPO法人 屯鶴峯地下壕を考える会」の田中正志さんに現地を案内をして頂いた。
御所市出身の田中さんは、屯鶴峯のある香芝市で長く小学校の先生をされてきた。クラスのなかに「二学期から、本名の朝鮮名で学校へ行く」とカミングアウトした在日コリアンの生徒がいたのをきっかけに差別問題に関わり、「香芝朝鮮文化研究会」をつくって朝鮮の楽器や料理を体験する活動などをするなかで大阪の高槻市の戦争遺跡「タチソ」(高槻地下倉庫)を見学したことで、地元の屯鶴峯に「陸軍の防空壕」があると聞いたことを思い出して調べることになったという。
屯鶴峯は二上山の火山活動によって降り積もった火砕流や火山灰などが堆積・隆起してのちに、1500万年間の風化・浸食を経て、現在のような凝灰岩が露出した景観となった標高約150mの岩山であり、古代には石器の材料としてサヌカイト、また古墳の石棺材や寺院の基壇などの石材が産出されてきた。地下壕はその火砕流堆積層の一帯につくられた。
田中さんたちのこれまでの地道な調査によれば、まず地下壕が掘られた時期は1945(昭和20)年6月半ば頃から敗戦を迎えた8月15日までと推測されている。つまり二か月間という短期間で東西の延べ2千メートルにも及ぶ地下壕が掘られたというわけだ。これについては『二上村史』に6月16日、一九五〇二部隊の少尉から明日から二上小学校を兵舎に借用したい旨の申し出があったとの記述があり、じっさいに(後述するが)労働者としての朝鮮人兵士が校舎に寝泊まりし、監督者の日本人将校たちは周辺の民家に宿泊して、地下壕までの道を通った。
一九五〇二部隊というのは、正式名称を「陸軍第一九地下施設隊」といい、名前の通り地下施設の設営のために編成された部隊である。防衛省防衛研究所の所蔵資料に『地下施設隊 臨時編成要領.同細則 昭20.4.17』という軍令書があり、ここに「第一九地下施設隊」の編成について、士官クラス7名、衛生兵6名は東海軍管区から、兵200名は朝鮮軍管区から差し出すようにとの命令が記されている。これには「朝鮮軍管区部隊差出ノ兵ハ朝鮮ニ本籍ヲ有スル昭和一九年徴兵ヲ以テ充ツルモノトシ」との注釈が付いていて、つまり「若い朝鮮人」を指定していることが分かる。
では、これらの地下施設はいったい何のためにつくられたのか。
当時の日本を取り巻く状況をふりかえってみよう。1945(昭和20)年2月のヤルタ会談ではソ連を含めた連合国により戦後の体制が話し合われた。3月には硫黄島の日本軍が全滅し、東京をはじめとする各都市への無差別空襲が常態化。4月には特攻作戦のために沖縄へ向かった戦艦大和が沈められ、海軍艦艇は事実上、その機能を停止した。本土決戦に向けた時間稼ぎの「捨石作戦」であった沖縄戦は6月23日に司令官・牛島満中将の自決により組織的な戦闘を終える。5月1日にはヒトラーの自殺とムッソリーニ処刑の報が大本営に入っている。6月8日には御前会議で本土決戦方針が再確認された。天皇はこの頃「全面的武装解除と責任者の処罰は絶対に譲れぬ。それをやるようなら最後迄戦う」と側近の木戸幸一に漏らしている。
アメリカは3月には日本本土への上陸作戦案を作成し、九州への上陸を「オリンピック作戦」、関東への上陸を「コロネット作戦」と命名していた。一説にはアメリカ軍の兵力だけで250万人を予定していたともいう。また日本の敗戦後に、ペンタゴンの統合戦争計画委員会(Joint War Plans Committee,JWPC)が起案した日本占領案「日本とその領土の最終占領(Ultimate Occupation of Japan and Japanese Territory)」には、アメリカの負担を軽減するために連合国による日本共同占領案が盛り込まれていた。冒頭の村上の『五分後の世界』の設定はそれに基づいている。
前述した『地下施設隊 臨時編成要領.同細則 昭20.4.17』を読み解くと、屯鶴峯地下壕は本土決戦を控えた航空総軍戦闘指令所としてつくられたということが分かってきた。田中さんの講演記録から引く。
当日、屯鶴峯の麓の駐車場で田中さんと合流する前に、行っておきたい場所があった。それですこしばかり早めに家を出た。
関屋は屯鶴峯の北東に位置する集落である。このあたりの地域には毎年4月23日に「岳のぼり」といって二上山へ登る風習がある。かつては山頂でごちそうを食べ五穀豊穣を祈る行事であったらしい。敗戦後の1947(昭和22)年、この岳のぼりで屯鶴峯から二上山へのぼった兄妹三人が、途中で拾ってきたペン状の物質を自宅の縁側でいじっていたところ爆発し、命を落とした。その悲しい出来事について、田中さんは「爆発したのは屯鶴峯地下壕にかかわる爆発物である可能性が高い。私は、このきょうだいも、「戦死」だと思う」と記している。
三人のお墓は集落の背後の日当たりの良い丘陵地に広がった共同墓地の一角にあった。正面に可愛らしい地蔵が彫られ、側面に「長男 勝行」「二女 美智子」「三女 登與子」の名がおなじ「昭和22年4月23日」の日付けと共に刻まれている。長く悲惨な戦火をくぐりぬけてやっともどってきた日常のなかで、両親の嘆きは如何ばかりであったかと思う。これもまた戦争の理不尽な犠牲であり、忘れてはいけない記憶である。
その後、屯鶴峯専用駐車場で合流した田中さんの車に同乗させてもらい、地下壕へ行く前に、朝鮮人兵士たちが宿泊していた二上小学校を案内して頂いた。香芝市立二上小学校は近鉄南大阪線の二上山駅のほど近く、国道165号線沿いにあって当時の立地と変わらない。屯鶴峯地下壕までは直線距離で3キロほどであろうか、徒歩で30分くらいの距離と思われる。あとで田中さんは兵士たちが通い歩いたと思われるルートを車でたどってくれたが、それは穴虫二上共同墓地から穴虫西の集落内をぬけていく道で、村の人々が隊列を組んで黙々と行進していくかれらの姿を記憶している。
現在の小学校はすでに新しく建て替えられたものだが、当時の校舎がいまも残っていると聞いて驚いた。連れていってくれたのは小学校から数百メートルほど東へ行った田圃のなかで、「〇〇牧場」と看板が出ているが、すでに廃業をしているらしい。偶然にも家の人が出て来たので、事情を言って少しだけ中を覗かせてもらった。かつて朝鮮人兵士たちが寝起きした校舎は、昭和40年代に民間へ払い下げられ、牛舎として使われた。釘を使わず、すべて木組みのために頑丈で、台風でもびくともしないそうだ。牛たちがいなくなったかつての牛舎は、どこか写真で見た原発事故後の福島の牛舎にも似ていた。
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