「あれから」と「これから」
Twitterでは過去に何度か話していますが、僕のルーツは福島県の浪江町という小さな田舎町にあります。
母親の出身が浪江町で、婆ちゃんも長らくそこにある古い平屋の家で暮らしていました。正月や夏休みになると車で5時間ほどかけて里帰りするのが恒例で、当時から乗り物に弱かった僕は事あるごとにパーキングエリアに家族を停まらせていたものです。
そんな浪江にある婆ちゃんの家は、ちょっと前まで薪で風呂を炊いていたり、トイレにはトイレットペーパーではなくいわゆる「ちり紙」が置いてあったり、隣にある叔父さんの家のトイレは汲み取り式だったりと、東京に住むオレにとっては昔話に出てくるような趣がある家でした。
一番近くのスーパーマーケット「サンプラザ」までは車で約10分。4歳か5歳の時にオレは、そのスーパーで迷子になり、何をとち狂ったのか一人で婆ちゃんの家まで1時間掛けて帰り、事態を知らない母親たちに捜索願を出されかけるという出来事もありました(帰巣本能って怖い)。
車の通りもほとんど無ければ夜は周りの田んぼから虫の鳴き声がひっきりなしに続く、さらに雨の日は窓にカエルが張りついているという、とにかく「田舎」という言葉がよく似合うのどかな町でした。
しかしある程度大人になると、その「趣」が「不便」と感じるようになり、浪江に里帰りすることにいつしか抵抗を覚えるようになりました。
「コンビニもねえし何の娯楽もないじゃん」と、婆ちゃんを含めた親戚のことは二の次で、自分の楽しさばかりを考えるようになっていました。さすがにもう少し大人になってからは感覚も変わり、抵抗を覚えることはなくなりましたが。
そんなあらゆる意味で思い出の深い浪江町。12年前の今日を境に、一気に不安の底へ落とされました。
2011年3月11日、東京で仕事をしていた僕でさえ「震度5強」というショックを受けるほどの揺れを体験しましたが、婆ちゃんの住む浪江町は震度6強。前年の2010年に爺ちゃんが他界していたため、一人で平屋に住んでいる婆ちゃんを思い出し、一気に青ざめたのを覚えています。
すぐに母親に連絡を取り、婆ちゃんの安否を確認しようとするも、あっという間に各地の電話回線がパンク。この時はLINEも無く、全てメールでのやり取りだったので、焦りを隠せないまま当時の職場である学童で働いていました。地震で困惑する児童を安心させなければならない立場でありながら、あの空間で一番不安を感じていたのは僕だったのかも知れません。
数時間経ち、なんとか親戚全員の安否を確認。全員無事だったようで、膝から落ちそうなほどの安心を覚えました。
しかし一夜明けて3月12日の土曜日の夕方、福島県の双葉郡にある福島第一原発が白煙を上げ爆発するというニュースが入りました。原子力発電について全く知識がなかった僕でも、ニュースでの慌ただしさを見て「これはやばいことが起きてるんだ」と直感しました。
実は僕の母親の弟、僕からは叔父に当たる人物が、当時原発内で勤務をしていました。作業員ではなく、受付で作業員の荷物をチェックする係だったので、前日の地震を受け爆発を起こした日は臨時的に休暇となっていたことは後で知ったのですが、その事も相まって気が気では無い状態が続きました。
その後、浪江町も原発被害により避難区域に指定され、浪江に住んでいた親戚一同は小学校の体育館などに移ることになるのですが、高齢の祖母を長時間移動させ、ゆっくり寝かせられないのは可哀想だ、ということで東京に呼び寄せ、仮住まいが決まるまでの間はかなりの大人数で寝泊まりをしていました。
翌年、2012年の6月には一時帰宅に同行させてもらいました。
「どうしても、この目で浪江町がどうなっているのか見たい」と懇願し、申込に名前を追加してもらい、「手伝い」という名目で向かうことになりました。
駅前には人っこ一人居らず、駅前の酒屋は店内も外も割れた瓶が散乱。駅前のロータリーにあった街灯は上から2m辺りの部分からボッキリと折れてしまい、「この下にもし人が居たら…」と考えるとゾッとしました。
一時帰宅の主な目的は、「自宅から持ち出すものをまとめ、規定時間までに区域を出ること」。浪江町に入る全員に防護服とマスク、線量計が渡され、南相馬にある馬事公苑という場所が受付兼着替え場所になっていました。
婆ちゃんの家の片付けも終わり、時間にまだ余裕があったため、請戸という海に近い区域に行ってみようということになりましたが、ここで見た光景は未だに忘れられません。
アスファルトの道路を挟む様に延々と続くガレキや、不自然な形で陸地に上がった無数の船。波によって外壁が削り取られた住宅など、今まで見たことがない風景がそこに広がっていました。
テレビの画面で見る光景と、自分の目で見る光景がこんなにも違うとは…としばらく絶句。同時に「自分の目で見ることができて良かった」と思ったことも覚えています。
それから約1年ほどが経ち、こちらに身を寄せていた親戚らが公営団地や東電の借り上げ宿舎マンションへの転居が決まり、それぞれ新しい場所に移り住むことになりました。
余談ですが、爺ちゃんの命日は2010年の4月4日。程なく一周忌を迎えるにも関わらず、墓参りも出来ない状態だったので、法事と称して皆で豪勢なパーティをしたのも楽しい思い出です。法事とは名ばかりで、皆でポテトや寿司を食べ、ジュースや酒を飲みながら在りし日の爺ちゃんが映っているビデオを見てゲラゲラ笑っていました。
その後、いつまで避難区域に指定されたままなのかもわからず、結果、人がほとんど離れてしまった浪江町ですが、つい数年前に思い出の残る婆ちゃんの家も取り壊されてしまいました。
婆ちゃんは長男である叔父さんと南相馬市の団地に移り住みましたが、やはり生まれ育った浪江が恋しいんだろうなと思います。
昨年の5月、爺ちゃんの十三回忌ということで久しぶりに福島に帰りました。婆ちゃんの家があった場所は駐車場の様な砂利と物置があるだけで、やはり寂しいものがありましたが、2012年の一時帰宅同行以来、11年ぶりに爺ちゃんのお墓参りも出来ました。
「長いこと一人にさせちゃってごめんね」
心で想うだけで無く、声に出して爺ちゃんにそう告げました。
婆ちゃんは昭和5年の生まれで今年で93歳。目や心臓などの病気を経験したものの、まだまだ一人で歩けるし補聴器無しでも会話が出来るくらい元気でした。本人は「100歳まで生きる」と常々言っていますが、その倍くらい生きそうです(ギネス記録軽々更新)。
あれから12年が経ちましたが、未だ自分の故郷に戻れていない人はたくさん居ます。
本来ならばもっと平穏な気持ちで震災のことについて考えたいのですが、未だ我々を脅かすウイルスのせいで、なかなか心中穏やかに…というのも難しいここ数年でした。
あれから多少なりとも大人になり、やっと自分の中で浪江町に対する整理が出来たようにも思います。
あの震災から立ち直れない人も、震災以前の暮らしを取り戻せていない人もたくさんいらっしゃると思います。
残念ながら、人間ひとりの力には限界があります。だけどそれぞれが同じ方向を向くことで何倍、何十倍、何千倍それ以上の発信力や大きな力を動かすことが出来ると思います。
「忘れない」「伝えていく」「(災害を)軽視しない」
僕はこの三つの教訓を、あの日に学びました。
今年も14時46分には心を込めて黙祷を行いました。
いつまでも皆様が無事で、健康でありますよう願っています。
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