見出し画像

侯孝賢『恋恋風塵』

侯孝賢監督『恋恋風塵』を観た。傑作だと思った。だが、その魅力はどこから来るのか私にはわからない。わからないなりに書こうと思う。私は中国語はわからないのだけれど、タイトルから恋物語であることくらいはわかる。ただ観終えて、大事なのはむしろ「恋恋」ではなく「風塵」、つまり「風と塵芥」の方ではないかと思い英語ではこのタイトルはどう表記されるのか調べてみると、「Dust In The Wind」となると知った。やはり「塵芥」が「風」に舞う、その儚さが重要なようだ。この映画が描くのはそういう儚さなのだ、と。

私は日本人である。つまり、アジアの一員である。普段はそういうことを忘れて映画と戯れている。私はハリウッドの映画を観てヨーロッパの映画を観て、中東やアフリカで作られた映画を(たまにだが)観る。その時、私は自分の感性がアジアの文化で育ったことで鍛えられたことをさほど意識しない。それが問題だとも思わない。映画を観る時は人はナショナリストになる必要はないと思う。ナショナリストが映画を観てはいけないとは思わないが、むしろ狭苦しいナショナリズムから解放されたいと(少なくとも)私は思う。

だが、『恋恋風塵』は私がアジアの一員だから楽しめる映画ではないかと考え込んでしまった。ストーリー自体はわかりづらいところがある映画だ。台詞で説明をしないし、回想シーンも挟まない。ハリウッド的にこちらをあらかじめ冒頭の数十分で物語の世界を理解させる「ツカミ」を備えた映画に慣れた人間にとって、この「ツカミ」のない映画は面食らうところがあるだろう。そして、肝腎のストーリーもわかってしまえば別段特筆すべきところもない、「若い盛りの恋物語」であることがわかる。洗練された手つきで描かれるわけではない。むしろ陳腐ですらある。

しかし、その陳腐なはずのストーリーがこの映画では不思議と膨らみを備えたものとして感じられる。それは、監督が「絵になるところ」を撮ろうと狙っていない、そのあざとさがないところにあるのではないか。いや、この映画に「絵になるところ」がないわけではない。むしろこの映画は田園風景や海辺の主人公の佇まい、兵舎でのビリヤードといったショットでこちらの記憶に残るものであるだろう。だが、それが――80年代の映画にしては珍しく――シャレオツな風俗を備えて描かれたものではないことが印象深いのだ。堅実に、そこにある風景をストレートに映す。そのストイックな姿勢がこちらを惹く。

結果として、この映画はエバーグリーンなものとして仕上がっているように思われる。エバーグリーン、つまり色褪せない魅力を兼ね備えたものとして、だ。私は今回の鑑賞が(不勉強にして)初めてだったのだけれど、不思議な懐かしさを感じた。この映画が誰かの焼き直しのように思われたということではない。この風景、この人物、この出来事が私の人生において起こったことであり、その私の中の原風景をくすぐられたような気がしたのだ。こんなこと、そう滅多にあることではない。強いて言えばエドワード・ヤン『台北ストーリー』を観た時くらいだ。

それを批評家よろしく私の中にあるアジア人の血(ナショナリズム?)の問題として捉えることもできるだろう。だが、それをやってなんになるのか、という気もする。大体、「アジア人の血」に訴えたい変な下心を備えた芸術なら、映画に限らずゴマンとある。だが、そんな映画が残るものだろうか。観客はそこまでアホではない。「わざとらしい」と切り捨てられて終わりだろう。だがこの映画は「わざとらしい」ものではないのだ。侯孝賢、またひとり侮れない監督の名前を知ってしまったものだ。もっとも、存在自体は流石に金井美恵子のエッセイなどを読んで知ってはいたが、ここまでだとは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?