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ビクトル・エリセ『ミツバチのささやき』

ビクトル・エリセ監督『ミツバチのささやき』を観る。深い映画だと思った。こちらをキャッチーな要素で惹きつける、というのとは違う。確かにアナ・トレントの魅力はチャーミングでこちらも息を呑むのだけれど、ストーリー展開にハラハラドキドキする要素はない。いや、正確に言えばこの映画の裏事情を知っている人間なら少しはハラハラドキドキするかもしれない。内戦に揺れたスペインで、政権批判が許されなかった時代に辛うじてごまめの歯ぎしりよろしく抵抗した一本、というように。だが、この映画は政治的だろうか。

なるほど、深読みできる映画ではある。映画内映画としてフランケンシュタインが登場する作品が映し出され、話題にされる。フランケンシュタインは言うまでもなく人造人間であり怪物なのだけれど、その怪物はそのまま時の政権を暗示している(あからさまにディスっている?)とも取れるのだ。届くことのない手紙、撃たれる兵士といった場面にもそういった「公的抑圧」の影を読み取ることができるかもしれない。しかし、そのような政治的読みは無価値とは言わないが、この映画が残るのはもっと別のところにあるのではないか。私は少なくとも――もちろん、「公的抑圧」には反対だが――もっとノスタルジックなものを読み取りたくなる。

ノスタルジック。つまり懐かしさだ。この映画は私に、幼少期の自分自身の思い出を想起させる。学校に通っていた頃のこと(教室で授業を受けていたあの日々!)、外を散策した思い出、家で死んだふりをして遊んでみた時のこと、炎の怖さを知らずに戯れた思い出、等など。脱走兵のような見知らぬ大人も、まず恐怖を感じるよりも先に私にとっての好奇心の向かう先になった。大人、というだけで自分とはステージの違う世界の住人のようで眩しかったのを思い出す。そんな日々のことを思い出させてくれるのだ。

そして、この映画はダウナーでもある。具体的に言えば登場人物たちはよく眠る。ベッドの中で、廃屋で、あるいは机に向かっていて不覚にも……眠ることは無垢に向かう/戻ること、というのはサリンジャーの短編の一節であった表現のように記憶しているが、登場人物たちは眠ることでまさに世界の中に身を落ち着け、安らぎを得ようとしているかのように感じられる。外のシビアな現実が描かれない中で眠りがここまで強調されると、むしろ描かれない分彼らを取り巻く現実がシビアであるように思われる。それが政権に由来するものか、もっと普遍的な生きづらさなのかはわからないけれど。

そして光だ。対象をアップで撮らんとし、蜂の巣や「ミツバチ」を撮る。同時にロングショットが使われて静謐に事態が映されるところまでは完全には記憶していなかったので、ここで私の記憶力の悪さが露呈してしまうのだけれどカメラの位置を自在に近づけて世界を瑞々しく甘美に捉える手腕には脱帽する。光がまろやかに対象を照らし(ほぼ自然光で撮られたのではないか?)、黄色がかった対象はそのまま光の中で温もりを増しそのままとろけていくようにも思われる。このまろやかさ、温もりがこの映画の醍醐味なのではないか。

『ミツバチのささやき』から感じられるのは従って対象が保護されているかのような、ひとりひとりに愛情が注がれているのを感じるような安心感である。その安心感と甘美にダウナーな快感の中で、私たちは現実を忘れて眠る。そう考えると最後のアナ・トレントを襲う運命についても少し理解できる気がする。この映画自体が甘美な夢のような、眠りを愛する人たちに与えられた極上の楽園ではないかと思われるからだ。その楽園のことをこそ、あるいは「幼年時代」と呼べるのかもしれない。もちろん、どんな「幼年時代」にも終わりは来るのだが(「公的抑圧」に終わりがあるのと同じように)。

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