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ダン・フォーゲルマン『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』

ダン・フォーゲルマン監督『ライフ・イットセルフ 未来に続く物語』を観る。ジェットコースターに乗っているような鑑賞体験だった。退屈はしない。サクサクとテンポよく進む。悪く言えば、観客を焦らしたり小休止させたりといった緩急のつけ方がなっていない。「タメ」がないというか、観終えた後印象に残るシーンを探そうとしても脳に残っていないという状態に陥る。上手くできた話であることは認めるが、映画にするのであれば主観的な時間を止めさせるような、シーンの美しさだけで魅せるような仕掛けが欲しいものだが、私だけだろうか。

サミュエル・L・ジャクソンのお調子者の語りから始まるこの映画は、果たして妻との別離がきっかけで心の安定を失ってしまった脚本家の苦悩が彼によって吐露されるところから始まる。だが、その脚本家が書いていた台本のタイトルが「信頼できない語り手」というところから嫌な予感しかしない。果たしてその予感は当たる。彼がカウンセラーに向かって語る内容は「信頼できない」ものであることが、他でもないカウンセラーの反論によって明らかになるからだ。このあたり、仕掛けとしてはあざといが上手い。

だが、上手いがそれ以上のものがあるだろうか。結果的にこの映画は海を跨いだストーリーの飛躍が展開される。ニューヨークで展開された脚本家とその妻のラブラブなストーリーは悲劇の様相を見せ、そこから彼らの子どもの話へと移る。親の愛情を知らずに育った彼女(ディラン、という名だ)の話はしかしさほど進行せず、一気に海を渡ったスペインへと。そこでまた、オリーブ農園の経営者と労働者の話から労働者が子を授かる話、その子がトラウマを追う話へとツルツルとストーリーは続いていく。その語り口には淀みがない。

だから、スケールは大きな話なのだ。映画の中では『パルプ・フィクション』をパロった場面が出てくるのだが、私はこのストーリーのスケールの大きさにおいてむしろアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥを連想した。タランティーノとイニャリトゥ、奇しくもどちらも自分で脚本を書く人でもある。技巧の水準だけで言えばこのふたりにかなり近いところまで行っているとも思われる。それは認めるにやぶさかではない(もちろん、イニャリトゥは脚本家ギジェルモ・アリアガとタッグを組んだ事実も見過ごせないが)。

しかし、上述した「タメ」がないことからストーリーは右から左にスピーディーに過ぎるほど展開する。結果としてラブシーンでふたりがいちゃついたり、あるいは一転して悲劇に巻き込まれた主人公が悲しみのあまり慟哭したりといったところで生まれる「淀み」がない。さっさとそういった出来事や事件は湯水の如く流され、あとにはなにも残らないのだ。一応は映画は「ライフ・イズ・ビューティフル」というメッセージを提示して終わるので「これ、もし『なにもかも脚本家の妄想でした……』という話だったらどうしよう」と思っていた私は一安心したのだが、ことによるとそっちの方が良かったのでは?

技巧派の、悪く言えばかなり頭でっかちな(そんなことはないだろう、とは思うがあるいは文学理論を『文学部唯野教授』あたりで勉強した脚本家が必死で書いたような)脚本が、ここまであっさり料理されてしまうと私は途方に暮れてしまう。いや、人生を応援する姿勢は支持したいと思うが、それが(これも全く脈絡がない映画を引くことになるが)『アバウト・タイム 愛おしい時間について』のような映画がハートウォーミングな余韻を残すところとは全く違う余韻になってしまっていることに、なんだか薄ら寒いものさえ感じてしまう。

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