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フェデリコ・フェリーニ『カビリアの夜』

フェデリコ・フェリーニ監督『カビリアの夜』を観る。フェリーニは人生の達人なのではないか? と思った。と書くとなんだか説教臭い映画でも観たような印象を感じられるかもしれないが、『カビリアの夜』はそういう説教臭さはない映画だ。ハラハラドキドキする、という意味ではなくむしろ予定調和の極みの旨味を感じさせるという意味で面白い。映画史上ここまで、この映画でジュリエッタ・マシーナ演じるカビリアほど惨めなヒロインが居るだろうか。その惨めさが笑えるし、泣かせるし、そして「これからもバカをやっていくんだろうな」と呆れさせる強さを感じさせるから面白いのだ。

カビリアという娼婦の物語である。彼女が川に突き落とされるところからこの映画は始まる。男に騙されて、持ち物を奪われてしまったのだ。あわや溺死という事態に陥っても彼女はその場をさっさと去ってしまう。娼婦、というと気楽な職業のように(取り分け無知な男は)思いがちだが、彼女の稼業は明日の保証などなにもない仕事であり彼女も早く男を見つけて幸せになりたいと願っている。かくして男に騙されっ放しの人生が続いていく。その騙される場面ばかりを抽出したような映画がこの映画だ。

ジュリエッタ・マシーナという女優の魅力については多く語るまでもないかと思う。『道』のジェルソミーナを演じて観衆を虜にした彼女の演技については、仰々しいオーバーアクションを用いなくとも口元を綻ばせるだけでこちらの感情を掴むことができている、その一点で凄味を感じる。ストーリーだけを見ればこちらをげんなりさせるかもしれない不幸な女を演じているわけだが、その不幸が(くどいが)笑えるものとして仕上がっているのは流石というべきだろう。この女優、もっと追いかけたくなった。

イタリア人気質というものについても考えさせられた。フェリーニはイタリアの映画を好んで撮る傾向があると勝手に思っている。つまり根拠がないのだが、少なくとも『フェリーニのアマルコルド』『フェリーニのローマ』『甘い生活』などはイタリアの話だったし、ナショナリストというわけではないかもしれないが土地に愛着を(人並みにであれ)持っていることは想像に難くない。この映画も果たして、「なんて『イタリア』な映画」なんだろうと思わされた。享楽的で虚無的であるようで、絶望を知り辛酸を舐め尽くした人間だけが味わえる達観した境地があるように思ったのだ。

女性の愚かしさと悲しさがこの映画ではよく出ている。男にフラれ、でも男を諦めきれない。いつかは奇蹟のような出会いがあると思い、生きる。そして男と出会い、信頼するが裏切られる。この繰り返しだ。その愚行(と敢えて書く)が、19世紀の小説のような予定調和感漂うストーリー展開によって繰り広げられる。次にどうなるのか展開が読めてしまう。にもかかわらず面白いのだ。この面白さはしかし、「斜め上」の展開を求めがちな現代のせっかちな観衆にどこまで伝わるものか心配にもなるのだが。

しかし、女性の愚かしさを描く一方でフェリーニは男が狡猾だというメッセージを込めるわけでもない。男も充分に愚かなのだ。恋人に逃げられたと思って娼婦を買う男のところに恋人が戻ってくる、その時に見せる醜態はどうだろう。あるいは催眠術師によって催眠を施された男たちの醜態。そういったものをリアルに描いているからこの映画は単なるミソジニーをこじらせた人間の青臭い/胸糞悪い映画になっていない。逆に愚かな私たちが、それでも生きていくためにはカンツォーネの調べに乗って無理にでも笑うことしかない、諦めることしかないのではないかと思わされる。このボンクラな境地こそがフェリーニの醍醐味かもしれない。

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