見出し画像

ナディーン・ラバキー『存在のない子供たち』

ナディーン・ラバキー監督『存在のない子供たち』を観る。必見、と言っても過言ではない作品だと思った。だが手放しで礼賛することもできない。生々しさにおいて、あるいはアクチュアリティにおいてかなり頑張っている作品であり、その頑張りを評価したい反面頑張りが弊害を産んでいるとも考えられると思ったのだ。これは、映画において「貧困」を描く際に「貧困ポルノ」にならないようにするにはどうしたらいいか、を考えることにも繋がるのではないかとも。その意味で、ともあれ今観ておいて損はない映画かと思うのだ。

12歳の子どもが親を告発する。罪状は? 「僕を産んだこと」である。「なんじゃそりゃ?」かもしれない。しかし、映画の中で綴られる現実はその突拍子もない言葉が現実的なものであることを教えてくれる。ところは中東。貧民街で、とある家族が主人公と妹を含む大家族を養っている。とはいえ主人公は出生届も身分証明書も持たない、まさに「存在しない子供」なのだ。そんな子どもは主人公だけではないだろうことは映画の中で示唆される。学校にも行けず、盗品を売買しその日暮らしに近い生活を送る。どん底の生活。妹は11歳で結婚することになり(拒否権はないに等しい)、主人公と別れる。孤独な主人公はとあるシングルマザーに出会うのだが……。

観ていて、是枝裕和の力作を思い出した。取り分け『万引き家族』のような映画が思い出される。もちろん、日本の貧困の実態とそこに芽生えたあり得ない共同生活を甘美に描いたあの映画と、中東のシビアな貧民の実態を描いた映画が似ているはずがない。それはわかる。だが、貧困を事細かに描写しており表層を舐めただけのリサーチではとても届かないところまでリアルであることが似ているように感じられたのだ。それはシビア過ぎるほどシビアで救済の余地などどこにもない。だが、現実とはそんなものだと言われると有無を言わさず納得させられる。

悪く言えば、この映画はディテールはしっかりしているとはいえ、やはり「貧困ポルノ」なのではないかという疑念を持ってしまう。ストーリーは現実をそのままドキュメンタリー風に映しているようでありながら、実は細かいショットを丹念に積み重ねてできた凄まじい加工の産物であることがその傍証になるだろう。撮り方においても加工が施され、ストーリー展開においても加工が施されている。それがマーケティングに乗っかってこちらに届くことでこの映画は「商品」となる。故に私たちはこの映画を消費できる。

消費の素材として有効に機能することを目指した映画。その中の一本がこの映画である。もちろん、それが悪いことだなんて言わない。どんな映画も届かなければオシマイだからだ。だが、この映画を観て身につまされた経験をする人の内、一体どれだけの人が「自分たちの問題」として貧困を考えるか。結果的に私たちは「日本の話じゃなくてよかった」とこの映画を切り離してしまうのではないか。これも、それが悪いことだなんて言わない。闇雲に「私がなんとかしなければ」と短絡した良心を振りかざすよりはずっと健全だ。しかし……ここで私の筆は淀む。この淀みこそがこの映画の力なのだと思う。

だが、私はあくまでこの映画を支持したいし高く評価したいとも思うのだ。理由は簡単なことで、最後の最後に見せた主人公の少年の笑顔にやられたから。辛い出来事のラッシュのようなこの映画で、最後の最後に見せた少年の笑顔はこの映画が提示するひと筋の希望を示していると思う。もちろんこの映画がハッピーエンディングであるなどとは口が裂けても言えない。言えないのだけれど、しかしともあれ出口が見えるストーリーなのだ。途中中弛みしているところがなくもなかったけれど、それを打ち消して余りある。もちろん、少年が笑顔を見せたからこの問題は解決するなどと言えないのも悩ましいのだけれど……。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?