『評伝 ジョウゼフ・コンラッド』
ロバート・ハンプソン著 山本薫[訳] 松柏社
「評伝」というもの自体、ほとんど読んだことがないので、本来がこういうものなのかもしれないですが、ポーランドに生まれて船乗りになって作家になって、と伝記的に時系列になぞっていくんだろうなあ、と思っていたら、政治、経済、技術といった時代背景やコンラッドの個人史(人間関係、女性関係、健康問題、金銭問題など)など、視点が変わるごとに、19世紀末と20世紀初めを何度も何度も行ったり来たりするのですね。
コンラッド研究者の時間は、物理的にではなく、『オルメイヤーの阿房宮』から『サスペンス』に至る作品の成立する経緯に沿って流れているのだなあ、と思いました。
で、私個人で言うと、そもそもコンラッドは『密偵』から入ったので、海洋小説作家とか(反)植民地小説作家だとはまったく思っていなくて、心理小説作家だと思っていました。ですので、「マレー」や「アフリカ」辺りで、とかく(反)植民地小説を論じるときに一緒くたにされがちな「植民地側」の内部の地政学をコンラッドは緻密に書いていると記述されていて、かえって新鮮味を感じたりしていました。
どっちかと言うと、8章の「父が」「母が」というところで、「えー、まだそんなことを言うの。そんなに家族関係で作品を説明したいか」と反感を持ったりしましたが、10章で、ちゃんと女性関係がわんさか出てきたので、まるで母親「だけ」が作品を書かせたかのような批評じゃないじゃん、これであれば全然納得するしと思ったりしました。
あるいは、常に金に困っているので、金策のために合作したりとか売るための短編を書き始めて長編になってしまったりとか売らんかなとアメリカで朗読会をやってどうやら訛りがひどすぎて何言ってんのか分からなかったらしいとか、鬱で死にそうなのにやたらと女性関係が華やかで手紙を書きまくるのは一体どういう精神状態なんだとか、そういう細部が面白いのでありました。
で、「評伝」ラストのコンラッド作品の評、「語りのサスペンスはサスペンション(宙吊り状態)の詩学に取ってかわられる」というは、まさにその通りだと思ったのです。『闇の奥』だって『ロード・ジム』だって、もちろん『シークレット・エージェント』だって『西欧人の目の下で』だって、いわんや『放浪者 あるいは海賊ペロル』だって、作品「自体」が、読んでいる最中、ずっと「宙吊り」に耐えるように読者を鍛えるようなそんな作品だと思っていたのです。いままで変な解釈を読むたびに「う〜ん、まあそれはそうなんだけどもさあ」という煮え切らない感じを、言い当ててくれていたと思うのです。
ところが、私、いわゆる「ポストモダン大陸哲学」大嫌い人間で、どうやらハンプソン先生もそうらしく、記号の表層で差異と戯れたり、意味の根源から差延したりして、コンラッド作品を「脱構築」したり、コンラッド作品を出汁にして何かを「脱構築」したりしない。そのままの「宙吊り」状態で頑張ろうとしている。私も「文学」は作品自体が何かを論じている「批評」だと思っているので、それをきちんと読めるようにするようなこういう「評伝」はとてもいいものだと思いました。