『コンビニ人間』村田沙耶香(読書会のあと)
ということで、第7回の「終わらない読書会」での違和感と、自分の読み方がどう変わったかを振り返る。
違和感の反省
読書会の事前アンケートを見逃していた(すいません)ので、この『コンビニ人間』を、
という読み方をするとは全く思っていなかったのでした。
読書会でずっと感じ続けた違和感を週末散歩しながら考えた結果、ちょっと視点を変えて、『コンビニ人間』に隠れた設定があると仮定して読み方が変わるか検証したい。
隠れ設定
冒頭に近い上記引用部分を膨らませて、設定を追加してみる。
古倉さんは大学の「創作科」に進学し、創作の技法を完璧に習得して、就学中はレベルの高い作品を書いていた。
卒業後もしばらく書き続けていたが、18年間のコンビニバイトの間に「自分には書くべきことがない」ことに気がつき、世界の部品であることに満足していた。
家族や知り合いからの強まる「普通」への圧力にも、古倉さんは違和感を覚えるだけで、本来は無視していても構わず、そのまま自然に死んでいければそれでよかった。
読み方の変更
すると、働くことと人間性の喪失、という読み方の上前をはねて、人間の寄る辺なさと向き合う「芸術家小説」としての側面が浮かび上がってくる。
挫折した芸術家古倉さんの前に、世界の部品であることに強烈な不満を持つ白羽が現れる。古倉さんは、自身は全く変わらずに、できるだけ世界のマニュアルどおりに部品として生きるために選んだ白羽との関係が裏目に出て、コンビニという世界から脱落してしまう。
世界の外に出て、古倉さんは、自分が「空っぽ」であることに改めて気づく。
同じように空っぽであるにも関わらず、それを認めることができない白羽を強烈に嫌悪する。
空っぽの「心」に「声」が流れ込んでくる。そうだ。私には「書くこと」がある。この目的と秩序に満ちた美しい世界を正確に写し取るのだ。
ぼくがそう読んでいるのか?
いえ、全くそんな風には読んでいない。
でも、もし、こういう設定が明確に冒頭に書かれていたなら、「コンビニの声」を聞いてコンビニ店員として生きることを選んだ古倉さんの結末を否定的に捉える読者はほとんどいないのではないか?
読者が、このままコンビニバイトを続ける古倉さんの生活に不安を持つだろうか? 芸術家として夭折することすらポジティブに評価してしまわないか?
古倉さんが将来部下を指導する立場になれるだろうかと心配するだろうか? 芸術家は孤高であって当然だと思わないだろうか?
労働者として社会から搾取され続けていくのではないか、と憤るだろうか? それは作品を産む苦しみとして解釈しないか?
「コンビニの声」が人間性の喪失のマニュアルのように聞こえるだろうか? 「とまれ、お前は美しい」という声が響かないだろうか?
違和感の正体
というわけで、今回の読書会でのぼくの違和感の正体は、以下のような疑問。
自らの仕事(人生)に満足している人間に対して、否定的な感情を抱くのは暴力ではないか? 疎外されているはずだ、苦痛を感じているはずだ、充実していないはずだ、と解釈するのは、まさに『コンビニ人間』のなかの家族や知り合いたちが演じている「普通」の強要と同じではないのか?
『コンビニ人間』は、文学をコンビニエンスに解釈してしまおうとする読者に内省を強いる毒に満ちたテーマを持っている作品なのだと思う。