セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点
セシリア・ワトソン 萩澤大輝/倉林秀男 訳 左右社
概念(表現したいこと)の「厳密さ」を言葉の定義(ルール)で決定できるものなのか、言葉の運用(コミュニケーション)で近づくものなのか、という点で著者のセシリア・ワトソンは、言葉をルールで縛っても常に裏をかかれ変わっていくのは当然なので、静的な定義はない。曖昧さこそが豊穣さの土台だと訴えている。
著者は科学概念・科学史の専門家とのことで、以下のような話は当然わかった上で書いているのだろうけれど、自分が攻撃している「言葉の政治性」と同じ身振りを自分でもしているように見える。(人格攻撃とか)
ヘンリー・ジェイムズが初期作品の「省略による不明確さ(曖昧さ)」を捨てて何もかも作者が決定して書き尽くそうとしたことを非難しているが、(引用されているヘンリージェイムズの文章では)より明晰であろうとして書き直した挙句失敗して曖昧になっている後年の作品の方が、私にとっては好みだ。
こういう例は印象批評になるのであまりよくない。メルヴィルのセミコロンの使い方がどうなのかはネイティヴじゃないので保留。でも著者自身が言うように、歴史的にも現在も、セミコロンがどれだけ恣意的に使われているかを考えれば、『白鯨』のセミコロンの効果も著者の恣意的な解釈じゃないのかと言われても仕方ないのじゃなかろうか。以下同様。
また、分析哲学者が「…は明らかである」と書きたがると非難していて、確かにネーゲルとか「それお前の信仰告白だろう」と言いたくなるような「…は明かである」を連発するけど、概ねの分析哲学者が明晰に論理立てて書こうとすることで非難されるのはおかしいだろう。大陸哲学の曖昧さ(蒙昧さ)の方がいいのか?と言いたくなる。曖昧さの効用を論じるなら、「曖昧さ」とは何かを厳密に定義してもらいたい。(はい、ここ笑うところ)
あるいは、デヴィッド・フォスター・ウォレスが学生の指導で「標準書記英語を使わないと君の人種・宗教・民族・性別の英語が差別されるべきものではないと反論すらできないのだ(大意)」といっていることに著者は激怒している。
ウォレスは英語(言葉)の政治的な性質をわかっているくせに英語の体制化に加担し、「標準書記英語」が「マイナーな英語」と同様に「選択されたもの」であるということを隠蔽しようとしていると言う。
一理あるとは思うけど、その指導に当の学生が「怒っている」と報告するくらい、「体制側の言葉」は言語決定論的には全然働いていないし、標準書記英語があるからこそ「マイナーな言葉」を用いて効果的に体制を非難することができるんじゃない?(それがそもそも体制側の論理だといっているわけだけど)
といわけで、私は制約の中で徹底的に明晰であろうとして挙句に制約を壊してしまうような言語表現こそがわざわざ書くに値するものだと思う。そうしてこそ、その制約が本当に「制約」なのだとわからせることになると思っているから。
もちろん、曖昧さに寛容で自由にやっているうちに新しいアイデアが生まれるコミュニケーションも、雑談としてそれはそれで;いいものだと思う。