個性の肯定からソウゾウは始まる

去る5月8日、日経COMEMOの「アート思考×ビジネス」トークイベントが、メディアアーティストの第一人者である藤幡正樹さんをお招きして開催されました。

シリーズ第3回となる今回のテーマは「気付くチカラ」。藤幡さんの言葉には、個性を認めることが、気付きをアウトプットへと昇華するために大切であるとのメッセージが込められていたように思います。


過去に浴びせられた悪気のない発言が、私たちの自由な発想の芽を摘んでいるのかも。ハッとさせられた藤幡さんの言葉たちとトークイベントを振り返ります。


おばあちゃん家に預けるときに、「いい子にしているのよ」という親は最悪。

会場が沸いたこの言葉。笑っているけど、みんな言われたことも、人によっては言ったこともあるだろう親の発言。


「いい子でいよう」と思うと、思考に制約がかかって子どもは自由にのびのびと発想できなくなります。


それに、怒られそうなことって、周りの誰もやっていないことと、ほぼイコールで結ばれます。

仮に「あ!」と何かひらめいても、褒められそうもないから、それを行動に移せない。



子ども時代の、自由な発想が摘まれる場面を憂う藤幡さんの言葉は続きます。

「うちの子の下手な絵を晒しものにした!」と小学校の廊下に貼り出した絵を見て言う親がいるみたいなんですけどね。最悪ですよ。

これは、発想の芽を摘むという視点からみなくても、ひどい発言ですが……。


同じものを見ても、子どもたちが全員異なる表現で描くことがすごいのに、それに気が付かない大人の感性を藤幡さんは嘆きます。


上手い、下手、稚拙という概念で評価されてしまうから、美術を嫌いになる人が6割ぐらいいる。


多くの人は「上手いか、下手か」といった二項対立でモノを捉えて評価する世界で生きています(もちろん、私も)。

だから、「うちの子の下手な絵を~」といった発言が出てきてしまう。


その評価軸しかないと、普段の服装も窮屈じゃない? と藤幡さんは投げ掛けます。

着たい組み合わせをすると変な目で見られるのではと不安になって、結局無難に落ち着いてしまう。自分を出す機会を失っている、と。


無難=周りに合わせるのは、個性を押し殺すこと。知らず知らずのうちに身についた捉え方のせいで、自分で判断する大人になった後も気付きにフタをしてしまうのはもったいない。


では、どうやったら自分の気付きを肯定できるようになるのか、という問いに対して

美術館は、わからないことを知るために行く。

と、美術館に行くことを藤幡さんは提案します。


デュシャンの『泉』は便器だけど、アートとして認められている。彼がそれで表現したかったものはなにか、なんで便器なのか……。


そうやって他人が気付きを表現した過程をわかろうとすることで、モノの捉え方が変わってくると。


個性が認められている場に足を運び、モノの捉え方をアップデートする。すると気付く機会も増えるし、気付きという個性的なモノを大切にするようになる。

その大切なものをどう外に出すのか、ワクワクしながら想像できるようになると、デュシャンのように社会に何かを創造できるようになるのでしょう。


まずは、美術館に足を運ぼうと思った次第です。

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