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聖書を読むnote#17

マルコによる福音書14:43-52


そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。


要約(Claude3)

この聖書の一節の主な要点は以下の通りです:

  1. 裏切り:イエスの弟子の一人であるユダが、イエスを裏切り、敵対する宗教指導者たちに引き渡した。

  2. 非暴力:イエスは暴力に訴えることなく、自ら進んで捕らえられることを受け入れた。

  3. 預言の成就:イエスの捕縛は、聖書の預言を成就するために必要な出来事であった。

  4. 弟子たちの弱さ:イエスの危機の際、弟子たちは皆逃げ出してしまい、人間の弱さや不完全さが露呈された。

  5. 献身と犠牲:亜麻布を身にまとった青年の存在は、イエスに対する献身を象徴しているが、同時に犠牲も伴うことを示している。

これらの要点は、イエスの受難が神の計画の一部であり、人間の救済のために必要な出来事であったことを示唆しています。また、弟子たちの行動を通して、信仰の道が容易ではないことも示されています。

Claude3 とのやりとり


亜麻布を身にまとった青年はマルコと言われてませんでしたっけ。

マルコによる福音書の中で、亜麻布を身にまとった青年の正体が明示されているわけではありません。しかし、初期キリスト教会の伝承や多くの聖書学者たちは、この青年がマルコ自身を指していると考えています。

その理由は以下の通りです:

  1. 自伝的な詳細:この出来事は、マルコによる福音書にのみ記載されており、他の福音書には登場しません。このことから、マルコが自分自身の経験を記録したのではないかと推測されます。

  2. 匿名性:初期のキリスト教文学では、著者が自分自身について言及する際、謙遜のために間接的な表現を用いることがありました。

  3. マルコとの関連性:使徒言行録には、マルコの母親の家が初期のキリスト教徒たちの集会場所として使われていたことが記されています(使徒言行録12:12)。このことから、マルコがイエスの弟子たちと近い関係にあったと考えられます。

ただし、この解釈は確実ではなく、推測の域を出ないことに留意する必要があります。聖書本文だけでは、亜麻布を身にまとった青年の正体を特定することはできません。

弟子たちはイエス様から色々と聞いてはいたけれど、罪人として捕らえられること、仲間に裏切り者がいたということが相当なショックと恐怖だったんじゃないかと思えます。私でもこんな場面では逃げ出してしまうと思う。

その通りですね。イエスが罪人として扱われ、捕らえられるという状況は、弟子たちにとって大きな衝撃だったでしょう。彼らは、イエスがメシアであり、神の国を地上に打ち立てるために来られたと信じていました。しかし、現実に起こったことは、彼らの期待とはかけ離れていました。

また、仲間の一人であるユダの裏切りは、弟子たちにとって深い悲しみと失望をもたらしたはずです。彼らは長い間一緒に過ごし、イエスの教えを聞いてきた仲間だったのですから。

恐怖と混乱の中で弟子たちが逃げ出したことは、非難されるべきことではないと思います。むしろ、それは人間的な反応であり、私たちも同じような状況に置かれれば、同じように行動してしまうかもしれません。

この出来事は、信仰の道が決して容易ではないことを示しています。しかし同時に、弟子たちがその後、復活したイエスに出会い、聖霊に満たされて、勇気と力を得て福音を宣べ伝えていったことも覚えておく必要があります。私たちも、失敗や弱さを経験しながらも、神の恵みによって成長し、信仰の道を歩んでいけるのです。

感じたこと・まとめ


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