聖書を読むnote#25
申命記20:1-20
要約(Claude3)
この聖書の一節は、イスラエルの民がカナンの地を征服する際の戦いについて書かれています。内容をいくつかの部分に分けて考えてみましょう。
戦いに出る際の心構え(1-4節)
敵の数や装備に怖じ気づいてはいけない。神様がともにおられるから。
弱気になったり、恐れたり、うろたえたりしてはいけない。
神様が敵と戦い、勝利を与えてくださるから。
戦いに出られない者(5-9節)
新しい家を建てたが奉献していない者、新しいぶどう畑を作ったが初物を味わっていない者、婚約したが結婚していない者は家に帰るべき。そうでないと戦死して、他の人がそれらを享受することになるから。
恐れ弱気になっている者も家に帰るべき。彼のせいで仲間の士気が下がるといけないから。
敵の町を攻略する方法(10-18節)
まず降伏を勧告する。降伏すれば住民を生かし奴隷にする。
降伏に応じない場合は包囲し、男は皆殺しにし、女子供や家畜などの財産は略奪物として取る。
ただし、神様が与えようとしている地の町の住民は皆殺しにし、何も生かしてはいけない。異教の風習に感化されないようにするため。
木を切り倒すことについて(19-20節)
実のなる木は切り倒さず、食べ物として使う。
実のならない木だけを切り倒して、砦を築くのに使ってよい。
この箇所からは、戦いにおいて神様を信頼すること、しかし戦う相手によって扱いを変えること、戦いのために自然を尊重しつつ活用することなどが学べます。一方で、現代の倫理観からすると、非戦闘員の殺害など受け入れがたい内容も含まれています。聖書の記述を文字通り受け取るのではなく、歴史的文脈を踏まえて解釈していく必要がありそうです。
Claude3 とのやりとり
Claude3:そうですね。イスラエルの民はエジプトで長い間奴隷としての生活を送っていました。その中で主体性や信仰心を失っていたことは想像に難くありません。
出エジプト後も、荒野の旅の間、彼らは幾度となく神に対する不平不満を口にし、モーセに逆らいました。カナンへ向かう途中、外敵との戦いに怯えることもしばしばでした。
しかし、そのような中でも、モーセは忍耐強く民を導き、神への信仰を説き続けました。神も、マナを与えたり、水を出したりと、民を守り導いてくださいました。
カナンの地に入る前の世代は結局荒野で倒れましたが、新しい世代は神への信仰をもって約束の地に入ることができました。
イスラエルの民の歴史は、弱い人間であっても、神を信じ従い続ける時、神が導き助けてくださることを示しています。私たち現代の信仰者にとっても、同じことが言えるのではないでしょうか。
自分の弱さや失敗を思い知るほど、神の恵みはより大きく感じられます。むしろ、弱さゆえに神に頼り続けることが、信仰の要なのかもしれません。イスラエルの民の経験は、そのことを雄弁に物語っていると思います。
Claude3:おっしゃる通り、現代社会の多くの人が、自分を人生の主人公、自分を「神」とするような考え方に陥っているように見えます。科学技術の発展によって、人間は自然をコントロールできるようになり、「神」を必要としなくなったかのような錯覚を抱いているのかもしれません。
しかし、私たちがどれほど発展しようと、人間には限界があります。病気、災害、死などに直面した時、私たちは自分の弱さを思い知らされます。
聖書は、古代イスラエルの民の不信仰を嘆きつつも、神は彼らを見捨てることなく、愛と忍耐をもって接し続けてくださったと記しています。それは、現代の私たちに対しても同じです。私たちが神から離れている時でさえ、神は私たちを愛し、私たちを待っていてくださるのです。
使徒パウロは、「私たちは、自分が何かできるとは考えません。私たちにできるのは、神からのことなのです」(2コリント3:5)と言っています。私たちは自分の力では何もできない存在ですが、だからこそ、神に頼り、神とつながっていくことが大切だと聖書は教えているのだと思います。
現代の不信仰な状況は嘆かわしい限りですが、一人ひとりが謙虚に神に立ち返り、神の愛と恵みに気づいていくことを願わずにはいられません。私たちクリスチャンには、そのメッセージを伝えていく使命があるのかもしれません。
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