『本気のしるし(2020)』レビュー(1)
「レールの敷かれた人生」という言葉があるけれど、その女はレールの真ん中で立ち往生していた。
深田晃司監督作「本気のしるし」は、踏切の真ん中で自動車に乗ったまま動けなくなっていた見知らぬ女、葉山浮世を通りがかりのサラリーマン、辻一路が救出から幕を開ける。彼女は別に自殺を企てているわけではなかった。ただその責任能力のなさゆえに、まともに運転もできないレンタカーを借り、いつのまにか手に負えない借金をこしらえ、好きでもない相手に押し切られて結婚し子どもまで作った。責任能力––responsibility–– つまり、私たちの社会のルール、いろんな約束や、欲望や、関係が彼女のもとに応答せよと信号を送れば、彼女からは「すいません」と対応不能の返事しか帰ってこない。どんな呼びかけにも返事ができない無責任な浮世という女は、私たちの社会にぽっかりできた関係性の小さな沼となっていた。ひとり、一路だけが、その底なし沼に手を伸ばすのだ。
「ただ自分がすっきりしたいだけなんだ」。そう言って彼は、物語の序盤から浮世の120万円もの借金を肩代わりしようと、この沼に踏み込んでいく。どうしてそこまでするのか。浮世を性風俗の店に売り飛ばそうとする脇田という裏稼業の男が、二人の前に立ちはだかってそう問いかける。「私は、ダメな男と女が地獄に落ちていくのを見たいだけなんですよ」。悪趣味な嗜好の告白に続けて、一路に浮世と体の関係を持ったのかと確認するが、この時点で二人に恋愛関係はない。惚れた女のために一肌脱ごうとするなら一路の行動の動機はわかるけれど、そうでなければ腑に落ちない。自分の欲望のためならなんでもする人間たちを相手にしてきた脇田のような男には、一路のように親切な男の動機が全く理解できない。
「欲」でないならば、何なのか。責任能力のない、一人では生きていけない沼のような女をどこまでも手助けしようとする人並みはずれて親切な男。ここで彼を仮に、「徳」にまみれた男とでも呼ぶことはできないだろうか。
たとえば、マーティン・スコセッシのギャング映画のように、儲け話をつかんだ「欲」にまみれた男(たち)が立身出世していくアメリカ映画の物語を思い浮かべてみよう。例えば『ウルフ・オブ・ウォール・ストリート』(2013)の主人公ジョーダン・ベルフォードのように、一度どん底に落ちた投資家が些細なチャンスをきっかけに、次のより大きなチャンスを掴み、ある地点までは次々と富を築き上げる。そこにはアメリカ資本主義社会が用意した「欲」が導く価値の経路が描かれている。
しかし、価値の経路は決して一方向ではない。ベルフォードの前に開かれた上流へと通じるこの価値の経路が、同じように下流へと下ることもできる。
ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』(1966)は、この欲を逆流する経路を描いた。少年ジャックは、父親に頼み込んでバルタザールという子どものロバ、バルタザールを購入し、彼が近所に住む少女マリーと将来を誓い合う。ロバを少女に預けて村を去り数年後、大人になったジャックが村に戻ってきてマリーに再び愛を告白するが、マリーはもう清らかではない自分はあなたと一緒になることができないと別れを告げる。マリーは、ジャック不在の間、駆け落ちに失敗し、年寄りの中年男に身体を売るまで彼女は落ちぶれてしまったらしい。しかしここで回想されるのは、マリーではなくバルタザールの過去なのだ。彼女と並行するように不幸な顛末を歩んだ哀れな動物。労働に明け暮れ、年老いて使い物にならなくなり、村の不良たちにいじめられ、引き取った浮浪者の男に見捨てられていく物言わぬロバをただカメラだけが追いかける。価値が最低になるまで使い潰された、この人間でも道具でもない、まるでその間にいるかのようなロバは、ベルフォードのような男が登っていくはずの価値の経路を逆流する線を人間社会の中に描くのだ。
『本気のしるし』で浮世がたどる顛末はこのバルタザールが辿った道筋を想起させる。約束を守ることができず、相手の要求(欲求)にいつも押し切られ、仕事を与えられてもこなすことができず不幸な経路を下っていく彼女は、ブレッソンが宗教的な寓話を託した人間ではない人間に近い何かに似ているのだ。そして「徳」にまみれた男、一路はベルフォードのような「欲」にまみれた男の出世話とまったく同じように、しかし正反対の向きにむかって、浮世をおいかけてこの価値の経路を下っていく。それは人が他人にどこまで親切にできるかというチキンレースでさえある。
最終的に、バルタザールはこれ以上価値が下がらなくなったところで、「聖なるロバ」として再びマリーの家に迎えられる。ロバは決して報われることはない。しかし、映画の中では価値がなくなったところで価値の基準そのものを超越したロバへと変質する。バルタザールは、ただ陰惨で不幸な物語を背負うだけの存在ではなかった。
浮世にもまた、バルタザールと同様にしかし別の形で、ただ不幸で無責任なだけの女ではない結末が与えられる。それを捉えるためには一路の目線から再び彼女のことを眼差さなかればならない。(続)