高橋洋『ザ・ミソジニー』短評
あたりまえだが画面を超えて伝わるなにかがあるから映画を見るのだ。しかし、その何かは決して見えない。実際のところ驚異であったり共感であったりあるいは恐怖であったりする何かは、見えないゆえに画面という制約を誰の意図にも縛られることなくすりぬけてあちらとこちらを行き来する。ゆえにきっとこれは病にこそよく似ているのだ。
『ザ・ミソジニー』でもっとも怖いシーンかどうかは知らないが、それは中盤に訪れる。直接的にか、間接的にか娘に殺されたらしい母親の亡霊は、交霊術の儀式のために椅子に縛り付けられた女優の身体に憑依し、火刑にかけられた聖女の如く燃え上がる焔に背景を包まれ高らかに笑ってみせる。鬱蒼とした森の奥に人知れず佇む小屋の広間には先の炎が、そこに一人暮らす女優らしき女の顔には先の母親の尊顔が二重写しになるのだが、手が混んでいるのだか、むしろ特殊効果としては時代錯誤なのでローテクなのだか、リアリティレベルのよくわからない演出がその堂々としたぎこちなさによってぎょっとするような強固なリアリティを獲得するので眺めていると天晴れという気持ちになる。
近年だとたとえばレオス・カラックスの『アネット』(2021)のハイウェイの上空に二重写しにされたマリオン・コティヤール演じるオペラ歌手の舞台場面、またはマノエル・デ・オリヴェイラの『アンジェリカの微笑み』(2015)に登場する亡くなった娘との夢の中での空中遊泳がそうであるように、2010年をまたいでもなお活き活きと実写映画に大見得を切って立ち向かう前時代的な特殊効果は、コンピューターグラフィックやデジタルカメラのなめらかな鮮明さに正面から挑戦するかのような勇ましさを発揮する。しかし、この高橋洋の新作『ザ・ミソジニー』に限って言えば、今の時代「にもかかわらず」ではなく、今の時代「だからこそ」のリアリティが付け加わっているようなのだ。
筋らしい筋を追いながら本作に迫るのはあまり有効ではない。しかし、というかその証明のために一度ここで失敗してみよう。まず、劇作家のナオミが奇妙な怪談を口にする。それは、失踪者を扱うテレビ番組でいなくなった母親について語る娘にまつわるものだ。コンビニを出たところで「森の茂みが写っていて、木立のところに誰かが立っているけれどよくわからない」ポラロイド写真を見つけた母親は以来、人が変わったように「こんな家出ていってやる」「私が誰だかわかっているのか」などと唱え始め、ある日叫びながら家を出ていってそこでぱったりと消えてしまった。消えたところの地面には焼け焦げた後のようなものが残っている。平然とその話を続ける娘をテレビカメラは撮り続けるが、今度は娘が駆け出し、カメラが家の外の森に視線を向けると茂みの中に誰かがいて片手で何かを掲げている。どうもそれが人間の首らしい。しばらくしてこの娘も死んでしまうが、ナオミはそれを「殺された」とわざわざ言い表すのだ。
この怪談をめぐり、映画は複数というよりも複層の劇を繰り広げる。それはナオミがこの怪談を劇にするために森の中の小屋にかつて彼女の夫を奪った女優ミズキを呼び出すことであったり、劇といいつつ母と娘にまつわる降霊の儀式を彼女らが繰り広げることであったり、黒魔術を習得するために自らの水子を生贄にしたというナオミの過去に触れたり、自分そっくりの母親との確執を持つミズキの生い立ちを回想したり、死者の呪いにまつわるなにやら陰謀めいたやりとりをさしはさんだり、であるのだが、そうしたいくつもの設定のレイヤーが80分足らずの短尺に散らかされていくのを、今度はそれぞれの話同士がいかに絡み合ってこの世界観を構造化しているのかをほどいていく謎解きは、それほどこの作品の観客に望まれていないのではないだろうか。というのも『ザ・ミソジニー』がもたらす感官の歓びを重んじるなら、謎が解かれる快感よりもむしろそれが絡み合う目眩にこそ映画のハイライトはあるように思えるからだ。やはり先に紹介した「炎の二重写」とも呼ぶべき中盤のシークエンスの動物的な快感の正体はむしろ、そうした複層化した意味の絡み合いを象徴する「誰とは定まらぬ者の不気味な顔」と呼ぶべきものではないだろうか。
野暮な謎解きも、ジャンル・ホラー史的なお勉強の解釈もここでは諦める他なく、そうした仕事は他所にゆずるとして、ここではただ一見複雑な劇構成を催しながらもこれがほとんどナオミ(中原翔子)、ミズキ(河野知美)、ミズキのマネージャー(櫻井翔二郎)の三人の役者による一つの場所での劇であることにこだわって「炎の二重写」の魅力に迫るとしよう。
すると、あの場面にいたるまでに、これを含めた四つのシークエンスが配置されていることがわかってくる。それぞれ、
① ナオミを眺める長回し
② ナオミとミズキのオンライン対談
③ ミズキの到着
④ 「炎の二重写」
と、呼ぶとしよう。
このような分類に至るきっかけは、②のシークエンスを見ている間に訪れた。ナオミがミズキに怪談を語る場面で、奇妙な切り返しを目にする。ナオミとミズキの会話を映す最中、カメラは対話する二人の女の「顔」ではなく、「ナオミがいる部屋」と、ミズキが映るディスプレイとを切り返すのだ。それは一つには、あくまで映画がこのナオミが暮らす小屋の中でだけ繰り広げられるものであることに固執しているともみられる一方、ミズキの顔が画面に映るものであるせいで、ナオミがいる部屋もまた『ザ・ミソジニー』という映画の一場面に過ぎないということが際立ち始める。
あるいは十年前であれば、カメラによって写された画面の映像というのはもう少し奇異なものとして受け取られたかもしれない。もしかすると現実世界での感染症の流行によってビデオ通話に慣れてしまった2020年代の生活者たちにとってカメラに撮られたディスプレイというのがそれほど違和感もなく受け取ることができるようになったという解釈は少々通俗的に過ぎるかもしれないが、映画美学校の講師として受講生たちと連作を制作してきた高橋の経歴を加味すれば、カメラでディスプレイやスライドショーをそのまま撮ることの可能性がそこで発見されたと考えるのもあながち的外れではないだろう。というわけで、『ザ・ミソジニー』は、スプリットスクリーンのようなものともまた異なったマルチスクリーン映画のような全体像を呈し始める。
そこで①と③とに目を向け直してみよう。②以降の構成がすでに見えていると、①が「一つの画面」のシークエンスであることがわかってくる。ナオミというよりもむしろ中原翔子という女優が演じる誰かが彼女が一夏だけ借りたというこの小屋のバルコニーで木漏れ日の下、ブランコ状のベンチに座りわずかに揺れながら赤いノートに何かを記すのを尻目にカメラが後ろに引いていくと、バルコニーが奥へ伸びていく先の上方へとさらに連なるなにやら金属のワイヤーのようなものが巻きついた錆止めのような暗い青色の階段をまたしてもミズキというよりも河野知美演じる何者かとしか呼びようのない女が降りてきて、「そろそろ私の出番かしら」と尋ねる。カットが切り替わって、中原演じる女が立ち上がって歩くと画面の端に河野演じる女が消え、そのまま彼女は中原の白昼夢の中だけの存在でそもそもここにいるべき人物ではなかったかのようにシークエンスから退場してしまう。中瀬彗の撮影がとらえるほとんど絢爛と呼ぶべき自然光の瞬きにも何か語るべきという思いに駆られるものの、それをこらえてこの2分強を長い二つのショットで繋いだシークエンスについて読んでみようと試みるならば、この森の小屋を映したシークエンスは画面の「こちら側」の世界を映したものと呼べそうだ。ここではただ、夢か幻のように画面を横切る河野知美の影とカラスや鳴き声や羽虫の囀りにまじって聞こえてくる不気味な女のかすかな叫び声のみで「あちら側」らしきものが暗示される。
続いて②では、先に述べたように画面が二つになり、③で小屋を訪れたミズキがまず自家用車のウィンドウの反射光で顔の一部を遮られた状態で移され、ウィンドウの向こうからぬっ、と飛び出してくるかのように車から降りる場面はきわめて象徴的だ。彼女は森の小屋にとって画面の向こうからやってきた女なのだ。訪問客のミズキにナオミが「魔除け」と称して披露する、ベトナムの王族令嬢やムッソリーニの愛人のスライドショーと、そこに紛れ込む「茂みの中に誰かがいて片手で何かを掲げている」映像によって画面内の画面が複数化する。ここまでくれば、複数の画面というモチーフが二重写によって溢れた別種の液体同士のように互いに向かって氾濫するというふうに、『ザ・ミソジニー』の勘所を捕まえることができるだろう。
(もう一つ付け加えるなら、終盤でナオミが演じる結界の魔法陣を描く演出は、人工的な境界線がこの氾濫への防波堤になることを印象付ける。)
画面同士の氾濫という視覚的モチーフは、プロット状での複層の設定同士の混じり合いという構造と連動する。シークエンスが変わるたびに観客は、目の前にいるたった三人の俳優にまつわるアイデンティティ・クライシスに晒される。たとえば、河野知美はミズキであるのか、ミズキの母であるのか、とかこの櫻井翔二郎はミズキのマネージャーであるのか、ナオミの水子であるのか、とか今繰り広げられているのは降霊の儀式なのか、はたまたその儀式を執り行う者たちの単なる劇なのか、といった具合にである。連想的に、このめまいをパラフレーズするならば、映画の構造はデヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』(2007)にやや似ている。ポーランドのホラー映画をリメイクするハリウッドのスタッフたちが繰り広げる劇中劇、劇中劇中劇……構造と、それがその前作に出演した女優幽霊にまつわるものであったという怪談オチは『ザ・ミソジニー』と共鳴していなくもない。
ただやはり、これが2022年の映画であることに拘るならば、画面を通じて伝わってくる、見えない複層の説話構造がまるで病のように観客を惑わすという感染症の流行で変わってしまった現代の私たちの画面のメディアとの付き合い方の変化に思いを致さずにはおれないだろう。画面を通じて感染りこんでくる、目に見えない物語に惑わされ「この人は誰だったっけ」という不安にさらされる恐怖は、テクノロジーの進退にかかわらず現代、一層リアルなものであるはずだ。
物語によっても、視覚効果によっても目の前に映るのがどこの誰なのかわからなくなる病に掻き乱されるので、観客はそれゆえ人というよりも物に近づいていく俳優たちの造形を「これはなんという名前の誰であったか」と探求しながら縋り付くように見つめるはずだ。
映画はそこに中原と河野という魅力的な俳優の「顔」のキャスティングを成功させた。それぞれ一度見たら忘れない特徴的な面立ちであるにもかかわらず、丸みを帯びた鼻と輪郭とに鋭い眼光の備わった中原と、切長の目に彫刻的に切り立つ鼻、大きく横に裂けた口を持つ河野とは相反する造形を持つと認めざるを得ないだろう。
画面に映るこの人はただ今目に見えるこの顔の人ということだけが確かである。目に見えない物語ばかりが流行るこの時代に、何を信頼すべきなのか。映画にとってはほとんど古典的な回答を再提示することが、本作にあらすじにも世界観にも還元されない強度をもたらすのだ。