見れない映画22:作品批評の外②;ヴァージル・アブローの素人
・97%の累乗でツッコミ続ける常識に3%のボケをかまし続けること
作品の外には何があるのか。
デザインが固有の作品ではないというのではないけれど。本には装丁があり、映画や演劇や音楽には劇場があり、配信メディアにはプラットフォームがある。だから世を出回る作品という中身=コンテンツにはその外側を包装し、生身の人間の手に渡るのを媒介する外枠の、外枠としてのコミュニケーションのデザイン(設計)がある。(といってアーキテクチャの批評などということはもう20年も前から言われているし、建築の批評史はさらに芸術批評と同じくらい古いのだけれど)。とはいえまずは、作品の外にはその作品と生身の身体が出会うための経路がある。寝室で見る夢がコンテンツ=作品なら、その家の仕組みを作るのがデザインである。だから作品の外にはデザインがある。
ではおかしなデザインとしての作品があるとすればそれは枠の外に溢れ出るARとしての夢のことか。
そのようなことを、ヴァージル・アブローの『複雑なタイトルをここに』(2019年、平岩そうご訳、アダチプレス)、『ダイアローグ』(2019年、アダチプレス)、「デザインのよみかた」の『ダイアローグ』の紹介鼎談を読みながら連想していた。
広告が嫌いで、音楽が苦手で、ヒップホップのこともほとんどわからない私は、この本を読むまでこのヴァージル・アブローというガーナからの移民の息子でシカゴ郊外で生まれ育って、工学系の教育を受けながらカニエ・ウェストのプロデュースでライブやグッズのデザインを手掛けたのを機に世界的なブランドで仕事をするようになった1980年生まれのデザイナーのことをほとんどなにも知らなかったのだが、彼がストリート文化とハイファッションの融合を企て、観光客と純粋主義者というコンセプトを唱え、故ダイアナ妃にオマージュを捧げた自身の作品をして「笑えるプロダクト」と嘯くのを聞いて、この人のデザインは「ネタ」なのだな、と思うに至った。
だからファッションのなんたるか、みたいなものは全然わからないけれど、わからない理由が二つあって、私は自分の見た目に関心がないというよりも、自分が自分の見た目のことを気にしていると人から思われることを何よりも恥ずかしいと思っているので、関心がないことを装っているというのが一つ目で、もう一つはそういうふうにしてクール=かっこいい見た目というのが、つぎつぎと移り変わっていくからそんなものはわからないあいだにどんどん変わってさらにわからなくなってしまうのがファッション=流行だと思うのが二つ目。しかしその二つ目、次々と新しさを塗り替える言語ゲームの追いかけっこをしていることはなんとなく、ファインアートの似たような動向から創造することができるから(ファインアートのほうがまだファッションより馴染みがある。ファインアートに詳しいとは言ってない)、アブローが「デュシャンは私の弁護人」と言う時に、彼がなにか「新しいこと」新しいでありつつそれなりにわかりやすいかたちでを新しいプロダクツという個物と新しいコンセプトのセットでやってきた様相はデュシャンの「泉」のような、ボケというか下ネタというか悪ふざけの現代版なのだということは想像できる。
アブローが彼のお得意のコンセプトらしい「3%」の話ーーつまり新しいことは元々あるものを3%変えることでしかできなくて、世の中はクソでシステムをぶっ壊さなければいけないというのはただの若者の気分の流行に過ぎなくて、本当はそのシステムの3%を改変して(改良して)ちょっとずつ新しいものを作っていかなければならないーーをするときに、デュシャンとヒップホップのサンプリング文化のことを想起して、ああ、そういうことか、と思う。
ああ、そういうことか、というのはこの人は、既存の常識に対して3%おかしなことをするボケなのであって、それに追いついて常識を更新しながらツッコんでくるツッコミからいつも3%ずつ逃げ続けるどつきあいが最先端のファッションなのだとすれば、ああそういうことか、と私は納得できる。全然違うかもしれない。ともかくそれがこの二冊の本への感想なのだ。
・ネタとしてのデザインのこと
デュシャンが始めたような言語ゲームじゃないか。そう思ってしまうと私はアートとファッションの違いがよくわからなくなってしまう。いや、アートとファッションはぜんぜん違うはずなのだけれど、いや、こんなふうに考えてしまうと一緒じゃないか。もう少し言うと、ファッションは服の話で実用の産業であり、アートはそうではないのにもかかわらず、カルチャーの流行について何が新しく何がそうではないのかを絶えず更新するゲームのあり方がとてもよく似ているので、抽象的にはよく似たゲームをしているように思える。そういうふうに同じで、そういうふうに違うことについて、考えていたとき『ダイアローグ』のこの部分に突き当たる。
「私たちはいま、世代間の衝突を目の当たりにしています。超商業的なものはなぜ芸術的であってはいけないのか? 人気のあるものはなぜ芸術的であってはいけないのか? 文字が書かれていない服のほうが高い評価を受けるのはなぜか? 商業とアートの新しい衝突です。そしてそれはファッションのなかで起こっています。ファッションはアート界における産業部門だからです。最近は大学でアートを専攻していた子たちがファッション業界で働くようになっていますしね。いまはそういう時代なんです。」
つまり、ファッションのデザインというのはアートの産業部門のようなものなのだろうか。アートとファッションというのはよく似たゲームの別リーグ、Jリーグとヨーロッパサッカーみたいなものだろうか。甲子園とメジャーリーグみたいなものだろうか。アートはネタでファッションはベタ、デザインはベタ。じゃあ「ネタ」としてのデザインってなに? とかも考えるけれど、全然違うかもしれない。
デザインというのは、おおかた「のデザイン」であり、製品なりサービスなりにまとわりつくなにかなのだ。アブローが『複雑なタイトルをここに』で取り上げているドアノブのエピソードが興味深い。あのドアノブというのは、どこでもそういう同じ形で当たり前のように使われている「デザイン」なのだ。機能の中に埋没して、皆当たり前だと思って透明化している。それがデザインであるというのだ。そういうふうにして、服も、建物も、デザインというのは機能と役割の中に埋没する、この生活のベタの領域にある。とすればデザインは俗のリーグでアートは聖のリーグという聖/俗が両者を隔てて結局同じルールのスポーツではないかと思うと怒られてしまうだろうか。誰に?
アートの聖というか、その霊験あらたかさは浮世離れしてもはやネタとかボケの領域にあり、ヨーロッパの狭いアートワールドというところはきっとその霊力を保持するために「業界」は業界内のベタとネタを更新する団扇の言語ゲームを繰り返しているということなのかもしれない。であるなら、団扇のベタはいつも強烈な外部のネタを求めている。(ベタのデザインではなく、ネタとしてのデザイン、スペキュラティブ・デザインというもののことを連想するがその話はまた別で取り扱う)
ファッションというリーグで、盛大なボケをかますべく、ラグジュアリーとストリートを接続したアブローは自分のコンセプトをこうして説明する。
「シカゴでは、黒人文化とラグジュアリーブランドは切っても切れない関係にあります。1枚の上着、1枚のスニーカーのために、かれらはどんなことでもします。撃たれようが、なにされようが関係ありません。私はデュシャンやコルビュジエ、マーティン・ルーサー・キングからドクターJ(ジュリアス・アービング)までを参照して自分の方法論を構築しました。かれらを参照するのは、ファッション界ではそうした秘境的なものがブランドをラグジュアリーだと印象づけるための常套手段として、無作為に使われているからです。高尚なものを参照する代わりに、「かれらを入り口にできないか」と考えたんです。「人びとの好奇心を掻き立て、深堀りさせるきっかけになるんじゃないか」と。ハイファッションはもっと知的でなくてはならないと思っていたんです。アートと批評的な言説が交わりうるのがこのファッション業界という場なんだと思います」
・批評全盛時代のこと
私が通っていたかつてあった批評再生塾で、東浩紀は「批評とは新しいコミュニケーションの回路をつくること」と言っていた。作品の外にデザインがあるというので、ここまで考えてきたけれど、それでまた思い出すのが、作品同士はいまや(というかそもそも?)コミュニケーションがとれないということだ。それで、生身の身体が作品と作品の間を行き来する経路を設計する必要がある。
コミュニケーションデザインという言葉を最近よく聞くが私はぜんぜんわからない。しかしそれは、この話の中でなら、「説明」としての作品批評、アートで言えばキャプションとしての作品批評、自分のことをぜんぜん知らない人に営業するための自己紹介としての批評言語としてそれを想定することができる。
それで、「作品」についてやっと言及したアブローの言葉が胸を打つ。
「私が本当に望んでいることがなにかわかりますか。それは黙ることです。文字どおり、しゃべらないということです。しかし現実を言えばその権利が認められるのはごく一部の人だけです。説明が要らないというのは、すごいことですよ。象牙の塔に籠もるなんていうのはともかく、最終的に目指しているのは、自分を消して作品そのものに語らせることです。これ以上、自分の作品を自分で定義したり正当化したくありません。作品づくりに集中したいんです。デュシャンは私の弁護士ではありません。人間らしさが私の地方検事長なんです。」
作品の外に営業として、作品としての内部に自己完結した言葉ではなく、作品の外のコミュニケーションで実効力を持ったパフォーマティブな煽り文句が必要になる。彼は、作家は、アーティストはそんなコミュニケーションをぜんぜん望んでいないし、「黙ること」を望んでいる。「権力を溶解させる ジャックセルフとの対話」のなかでも「成功するまで成功したふりを装うこと」、「ないものをあるように装うこと」が繰り返し言及されるが、そこに「デザイン」というものの現代的な機能があると思う。
金融資本主義も、高度消費社会資本主義も今はまだよくわからないが、ここで言及されていることを私なりの比喩で読むならこういうことだ。
建築をルーツに持つデザイナーのアブローは、批評により身分を「装う」ことで、ラグジュアリーという宗教建築の内部に侵入して宝物殿に盗みに入ろうとする、われわれストリートの一般人のスパイなのだ。一般人の若者が未来に夢を持って生きるために彼がやっていることは必要な「悪」なのだ。
そのようにして「デザイン」と作品をわけて考えること、私は今や批評にもぜんぜん興味がないし、ないならないほうがいいものだとさえ思っているけれど、それとは別に今や批評や評論とはぜんぜん呼ばれない形で批評のコミュニケーションデザインが「作品」には必要とされていて、私はそれを全然良いことだと思っていない。
(また別に、ゴダールとカニエ・ウェストは似ているかという話がある。わたしはぜんぜん似ていないと思う。アブローのアーカイブ、レファレンス、ジェネリックというコンセプトはゴダールに少し似ている。でも、ゴダールはヒップホップではない。この話はまた別でする)