『本気のしるし』レビュー(2)
「徳」にまみれた男、一路はなんでもそつなくこなす親切な好青年というわけではない。彼もまた浮世とは別の形で問題を抱えており、ただ不幸な女を放っておけないので救いたい、正義のヒーローではありえない。
一路を最初に糾弾するのは、長年彼と曖昧な恋愛関係を続けたらしい同僚、細川だ。彼女は「曖昧で優柔不断なだけ」と一路を評し、「ここまで言っても愛してるって言ってくれないんだね」と、成り行きで関係を続けるだけの一路の無感動を問い詰める。これがヒーローの物語ならば、一路は浮世のように困っている他の多くの人も平等に救わなければならないはずだ。しかし、映画はそういうプロットを用意していない。代わりに一路という男の無感動さを一つの病理のように取り扱ってみせるのだ。細川の前で一路は、目的も愛情もなくただその場しのぎの身振りで動く不安定な男としてその器用さを告発される。「徳」にまみれた男の正体とは、目的もなく慣性に従うように人助けをする親切なゾンビのような存在だった。映画は、一路の中身のなさを通じて、「困っている人をなんとなく助ける」という、なんとなく世間に蔓延する中身のない親切心のようなものまで暴露しようとしているのかもしれない。
では、一路は本当に中身のない男なのか。そう問われて彼は取り繕うだけの関係をすべて捨て、最も困難な浮世との関係を求め始める。結局、彼に中身はあるのか。「本気のしるし」をみせることができるのか。なんとなく目の前の不幸に手を伸ばしてしまう親切さのゾンビは、ただいつまでも最も不幸な女にだけその手を伸ばすことで、生きるしるしを得ようとする。
一路が浮世を救うのではない、浮世が一路を救うのかもしれない。映画がその展開に舵を切った時、浮世を求めて「徳」の経路を描くはずだった物語は、突然ストレートなラブストーリーに変貌する。浮世を監禁していた彼女の夫の家から連れ出し、離婚を取り決め、幸福な生活が送られるのも束の間、ありきたりな言い方をすれば、二人の恋に新たな危機が訪れる。浮世はただ不幸なだけの女ではなかった。
仕事のトラブルの最中、一路は上司を通じて新進気鋭のIT企業からヘッドハンティングを受ける。栄転に一時は喜ぶも、一路を誘った経営者、峰内が実はかつて浮世とともに自殺未遂をした彼女の元恋人だと知らされる。今度は、会社の不正取引が判明したことで、トップである峰内が急遽、窮地に立たされたことを知ると、浮世は一路の家を飛び出して峰内が待つ埠頭へ走り出す。彼女と生きる人生を始めようとしていた一路には寝耳に水だ。しかし、駆けつけた一路は、浮世から「彼のような心の弱い人には、私がついていないといけない。一路さんは強いから大丈夫」というセリフを聞かされ、突き放される。それは浮世の元に駆けつけるために、一路自身が細川にかつて投げかけたのと同じセリフだった。
バルタザールが聖なるロバとしてマリーの家に戻ってくるという展開を想起しよう。これは深田なりの、この寓話のバリエーションではないだろうか。一路にとって最も責任能力のない弱いものであったはずの浮世は、一路の将来を決めるようなリクルートを持ちかけた企業のトップを「自分よりも弱いもの」として扱う。最も弱いものとは、富と権力に囲まれて重大な責任を負わされている、価値の経路の上流を頂くものであったようだ。ちょうどバルタザールが宗教というモチーフを通じてしたことと同じように、しかし宗教性とは別の術を通じて、浮世は価値の回路の底を突き抜けてその上流の頂点へと一周する。(続)