スティーブン・スピルバーグ『ミュンヘン』(2005)評
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↑ skiptracingさんの企画に参加して執筆した映画批評です。
1:映画の失敗
スティーブン・スピルバーグ監督の『ミュンヘン』(2005)は映画的なスペクタクルに失敗する。しかしスピルバーグのことであるから、それは映画的な拙さのためでは決してない。
たとえば、主人公アヴナー率いるイスラエルの諜報チームがパリで二人目の標的であるマフマッド・ハムシャリの暗殺を試みるとき、一つ目の長回しは、ハムシャリの留守に侵入した三人のスパイーーアヴナー、ロバート、カールーーの視線が留守中の邸宅に侵入し、玄関を鍵を解いて直進し、ハムシャリの執務机に突き当り、左に折れてピアノの置かれた隣室で窓際のコンソールテーブルに置かれた目当ての固定電話に辿り着くことで、固定電話に仕掛けられた爆弾の導火線と、発動の条件となる電話線が連絡しあって「線」というモチーフを浮かび上がらせるし、続くもう一つの長回しでは、爆弾の作成者ロバートによる爆弾の説明に促される形で屋外に出た視線が、近隣の電話ボックスで受話器を構えて待機するカールと落ち合い、目の前の道路を左から右へ横切る車両の後部座席から機動装置をかかげたロバートを覗き、走る車両に促されて水平方向に振られ、手前のキオスクで他の客に紛れて新聞を読むふりをしてまぶかにかぶったハンチング帽ごしにロバートを見送るアヴナーを発見すると、こちら側に振り返って頭上を見上げる彼に促されてハムシャリの邸宅の窓に辿り着くので、これから複雑に切り返す複数の視点のサスペンスを下染する。ひとたび作戦が開始されれば、これら機能的な長回しと短い切り返しの配備は、トラックによる視線の遮り、その影で見過ごされる娘の一時帰宅、誤算に気づいて作戦の中断に疾走するアヴナーといったハプニングに適切に驚き、その後で同じ手順を繰り返して遂行されたハムシャリの爆殺をまるまる映画から省略するのを承知する観客の心理を準備する。ヒッチコックの『裏窓』や『ロープ』のような古典映画を想起させる映画としての巧みな語りは、スパイの作戦の成否にまつわるスペクタクルへと結晶するのだ。
しかし、これから見ていく『ミュンヘン』という映画は個々のシークエンスにおいてはときおり成功するこうしたスペクタクルがどういうわけか作劇全体の中で徐々に失敗していく。スペクタクルの失敗はスパイとしての作戦の失敗などではなく、主人公たちによる作戦そのものの放棄であるようなのだ。本来、オリンピックの試合の模様が放送されるはずであった1972年の各国のテレビ画面を占拠して報道されたミュンヘンオリンピックのテロ事件を、撮影されたテレビ画面が映画のスクリーンを占拠する奇抜な演出は、オリンピックという虚構の試合=ゲームが終わって、現実の戦争が始まるといった印象をたしかに観客に与える。しかし、果たして映画という虚構そのものがこうして頓挫してしまうような映画は、いかにしてその虚構の外側を表現しうることができた/できなかったのであろうか。
2:スパイのふりをした家庭人
イスラエル政府の密命でミュンヘン事件の首謀者たちの暗殺にあたるアヴナーにはスパイらしからぬ料理という特技が備わっている。スイスに到着したアヴナーが作戦チームのメンバーと合流するシークエンスではアヴナー自らが包丁を握って手料理を振る舞う。アヴナーに限らず、自動車を手配するスティーヴは「車」、文書偽造のハンスは「家具」、爆弾製作のロバートは「玩具」、現場の証拠を隠密するカールは「掃除」といった具合に各々家庭的な特技をその職能とは別に併せ持っているようなのだ。戦場の連隊ならいざしらず市街地で人知れず標的を騙し討ちにするスパイたちには世を忍ぶ仮の姿が必要だ。ここではひとくくりにこの男たちを「家庭人のふりをしたスパイ」と呼んでしまおう。
家庭的な男は人殺しのスパイとは相容れない。まるでそのような推察に先回りするかのように、映画は言い訳を用意している。幼少期にキブツというイスラエルの農村の協同組合に預けられたことで料理を習得した彼は、その来歴を通じて家庭ではなく、国家への忠誠心を語る。彼の料理は家庭のためか、国家のためか、またはチームのためか。先に結論を述べるとこのモチーフが彼の身分をずっと宙吊りにし続ける。家庭人の顔とは果たして彼の隠れ蓑か、それとも本性か。
アヴナーがスイス行きの飛行機の窓にミュンヘンのオリンピック会場でテロリストに襲撃されたイスラエル代表選手たちの最期を幻視する。興味深いのは、窓から逃げようとした一人の選手が床に落ちたパン切り包丁を見つけるや否や逃走を断念し、拾い上げて機関銃を掲げるテロリストの一人に勇敢にも襲い掛かることだ。軍人ではなく、一介の市民に過ぎないスポーツ選手の勇気ある行動に、これからテロリストたちとの戦いを強いられるアヴナーが鼓舞されるかのように見える。しかしこの幻視で一本の凶器に勇気づけられたはずのアヴナーは作戦に決して刃物を使用しない。彼が人を殺す時に使うのは銃や爆弾ばかりで、刃物は彼にとって料理の道具であり続ける。
アヴナー、刃物、殺人の三者関係はルイというフランス人の情報屋の登場で一層複雑になる。キプロスでの作戦で誤算により想定以上の部屋数を爆弾が吹き飛ばしたとき、作戦メンバーたちは機材を手配したフランスの情報提供者ルイに疑いの目を向ける。彼らがその不安に思い至るのがまさにルイの手配した頼りない小さな釣り船の上であることがこの喜劇を一層、掻き立てるが、結局このルイという男はアヴナーたちにとって敵でも味方でもない。彼らの作戦を手助けするための情報屋は、政府機関を毛嫌いする非合法活動家であるため、アヴナーたちにも後ろめたいところがあってはじめはイスラエル政府の下で働くその身分を隠している。ルイのもたらした情報をもとに決行されたベイルートでの大規模な作戦をきっかけにその素性が暴かれると、アヴナーはルイから呼び出しを受ける。ルイの組織からの処罰を覚悟したアヴナーは、ルイの組織を束ねる「パパ」という人物と会食することになるのだが、この「パパ」が料理人なのだ。
敵対するかと思いきや、「パパ」は料理を通じてアヴナーに、「家族のためにすべきこと(what he must do for his family )」をしたとしてアヴナーに「共感(sympathy)」を示し、彼のルール違反を看過する。しかし以降はアヴナーのチームは不幸に見舞われる。アテネでのパレスチナ人活動家との鉢合わせ、KGBのエージェントを誤射し、メンバーを失い、敵の暗殺に失敗し、私的な報復で任務外の殺人に踏み切る。「パパ」はアヴナーを「家族のために」働くことで赦したが、それ自体が彼らの作戦に亀裂を与えているようなのだ。それまで国家のために働いてきたアヴナーらのチームは、金のため、家族のため、自分のために働くことが脳裏によぎるとことごとく作戦は失敗する。それはスパイゆえの二重の身分に関わる劇の転倒である。「家庭人のふりをしたスパイ」であるうちはすべてうまくいっていた。しかし、「スパイのふりをした家庭人」という本性が顕になったとき、男たちの作戦はことごとく不運に見舞われる。不運に見舞われるのがことごとく男たちであることをもう一度強調しておこう。
3:女のふりをした人殺し
ベイルートでの作戦中に女装して敵に近づき油断したPLOの幹部たちに奇襲をかける兵士の一人が「バラク」と名乗る、不自然にとってつけたようなシークエンスがある。これは、後に(1999年)イスラエル首相に就任するエフード・バラクが実際に軍人として作戦に参加していたことを描くトリビアシークエンスなのだが、単なるトリビア以上の主題的な意味合いがそこに潜む。
男たちばかりで構成された「家庭人のふりをしたスパイ」のチームの裏で、映画は実のところ作戦を確実に遂行する冷酷な女たちの存在も描いているようなのだ。女装したバラク、ゴルダ・メイア首相、女暗殺者ジャネットの3人こそ男たちが失敗した作戦を遂行する「女のふりをした人殺し」なのである。
冒頭、ミュンヘン事件を受けて復讐に燃えるメイア首相は、これから自らが指揮する無慈悲な作戦を開始するにあたり、国家を持たないパレスチナ人を特定(recognizable)できない狂信者(maniac)と呼び、「どの法律が彼らを守るというのだ(You tell me the law to protect people like these)」と、法に守られない国家なきパレスチナ民間人の虐殺を正当化しようとする。
戦争とは何か。辞書的な意味に従えばそれは国家同士の対立であり、近代戦争もスパイたちの冷戦も国家という枠組みの中で繰り広げられる戦いに過ぎなかった。国家と国家の間の戦争であれば、条約によって停戦協定を結ぶことができるはずだ。パリで暗殺された標的ハムシャリが、彼の家の調査に潜入するため記者に扮したロバートに、イスラエルの民間人虐殺を非難する場面がある。まさに国家という枠組みの中でだけ繰り広げられるフェアゲームであればその外で民間人を襲うこと、あるいは民間人が国家を襲うことはルール違反になる。しかしそれはあくまで男たちの戦場におけるルールであり、メイア首相が踏み切る国家を持たない市民との場外乱闘は女たちの領域のようなのだ。そして、この論の見立てでは、『ミュンヘン』という映画はそこに手を伸ばしつつ、この場外を描き損ねる。
パレスチナにおいて「インティファーダ」というアラビア語が国際政治の基本語彙となるのは1987年。『ミュンヘン』の舞台となる1970年代からは遥か未来の出来事だ。2005年に製作されたこの『ミュンヘン』という映画には確かにパレスチナ問題が国家を持たない一般市民と国家の戦争であるという意識が確かに息づいている。「インティファーダ」とは1980年代にパレスチナの占領区で頻発するようになった一般市民による抵抗運動だ。1967年の第3次中東戦争でイスラエルが圧勝した後、80年台のPLOの退潮を経て、プロの軍人同士の「公式」な戦争が困難になると、投石や交通妨害で占領区の一般市民たちがイスラエルに抵抗を示すようになった。占領当局は彼らを逮捕し、拷問し、逮捕者の家を焼くなどして非情に対処したものの、非武装の抵抗運動に手を焼くこととなる。
なぜ『ミュンヘン』がわざわざ世界貿易センタービルをCGで再現してまでラストシーンに挿入せねばならなかったのかの答えがここにある。彼らが描こうとしたのは、敵/味方のはっきりしない戦場の外にある戦争であり、それは現代的な意味では一般市民が市街地で巻き起こすテロリズムなのだ。実際に、この時点でスピルバーグはそのあえかな幻想にもにたCG建築を通じた感傷によってしか2001年以降のアメリカのリアリティを描写し得ていない。まるでそれは映画的なスペクタクルが描きうるのは、あくまで枠組みの中で描かれる限定的な戦争だけだと諦めた態度そのもののようなのだ。
三人目。女暗殺者ジャネットは、必ずしもアラヴ側の人間とは言い難い。誤射されたKGBが雇ったのかもしれない。本作における彼女の存在意義は、それがハニートラップとしての騙し討ちであること、仲間の報復という形でアヴナーのチームが踏み切る唯一の私的な殺人であるということ、男ばかりの「スパイのふりをした家庭人」のチームに敵対する女であるということなのだ。であるからこそ、彼らは彼女の遺体の下腹部をわざわざ晒して女であることそのものを侮辱してみせるのだろう。
虚構の中でしか生きていけない男たち、生きるためには人殺しを厭わない女たち。そこからさらにはみ出してわずかに登場するもののほとんど描かれることのない第三の要素が『ミュンヘン』には登場する。それは殺す女たちの対局に位置する産む女、アヴナーの妻ダフナである。女装した男、老婆、死んだ女。人殺したちは三人とも新たな生を授かることのできない女たちでもあった。
4:映画の外で
『ミュンヘン』という映画の作劇をごく単純な構図に押し込んで見立てるならばそれは、ミュンヘン・オリンピック事件へのイスラエル側の報復である。するとこの映画がいかにスペクタクルに崩壊してその結末を見失うかが見えてくる。作戦の最終目標である敵ミュンヘン事件の首謀者アリ・ハッサン・サラメの暗殺は二度失敗し、主人公アヴナーとこの宿敵との対決は何度も回避され、チームメンバーは命を落とし、アヴナーはスパイの職を退き、映画はクライマックスを見失う。これはアヴナーの敗北ですらない。クライマックスがサラメとアヴナーの対決が想定されていたとするならば、アヴナーが決闘に敗れるバッドエンドすらこの映画は退けている。最終盤、ニューヨークの新居に帰宅するために道路を横切るアヴナーめがけて走ってきた車が急停止して彼は交通事故を免れる。こうして彼は不名誉にも生き延びるのだ。
ニューヨークの自宅で家族と暮らすようになったアヴナーはミュンヘン事件の被害者たちを幻視する。ニューヨークで家族との平和な暮らしを送るはずが、ヨーロッパでのスパイ生活から後遺症を患ったかのように絶えず疑心暗鬼に苛まれるアヴナーは妻との性行為の最中、(作中では三度目にあたる)ミュンヘン事件でテロリストたちに虐殺されるオリンピック選手たちのフラッシュバックを目の当たりにする。本作がまだ「仇討ち」のスペクタクルを守るならば、彼が現実の中で叶えられなかった願望として幻視すべきなのは、宿敵サラメの暗殺であるはずだった。しかし彼はむしろ、直接見ることが決して叶わず、テレビのニュースを通じて妄想するより他なかった不幸なオリンピック選手たちの最期なのだ。
この幻想は、映画の冒頭でメイア首相がつぶやいた「ドイツ、オリンピック、ユダヤ人の遺体」のセリフと共振してその象徴的な意味を増幅させる。オリンピック選手たちの死は当世のスキャンダルであるだけに限らず、第二次世界大戦時のナチスの悪行や、それ以上にユダヤ人が背負った「祖国に帰ることができずにヨーロッパの都市の片隅で死ぬ」歴史を連想させ、非常に凡庸な形で、メイアのセリフとアヴナーの幻想が「ユダヤ人の名誉ある死」へと象徴化する。歴史上の人物としての「名誉ある死」に憧れつつ、家族と生きるために祖国に意図的に帰らない「不名誉な生」を生きる男としてのアヴナーがここに描かれている。
では、映画はどのように終わるべきだったのか。スペクタクルが崩壊した後で、主人公が生き延びることで終わりを見失ったこの映画は本来、「不名誉な死」によって終止符を打たれるべきではなかったのか。つまり、ありうべき結末とはこのようなものではなかったか。
アヴナーの死因は事故死を装われた暗殺だ。あの自宅の前の道路で彼は表層的には交通事故によって亡くなる。道路横断のモチーフは映画の序盤から頻繁に登場している。ローマでの暗殺シーンでは作戦の決行をアヴナーとロバートが決意するシーンとして、パリでは作戦の中断に奔走するシーンとして、パリの夜では社会のルールとは別のルールで生きるアヴナーとルイを暗示するシーンとしてそれらは配置された。横断とはここで、社会の交通ルールを無視して生きる塀の上を歩くスパイたちの証だ。アヴナーはそのパロディとして、一般市民として自宅の近くで不慮の事故によって命を落とすだろう。そこで道路は日常のルールが支配する、非常事態の戦争とは最も遠い場所であり、誰も彼が祖国のために戦って死んだなどとは思わないありふれた事故死でしかありえない場所である。
アヴナーを殺す人物もまた彼に対しての個人的な報復感情を持ち合わせない匿名の人物に違いない。裏にはイスラエルに恨みを持つテロ組織が関与しているかも知れない。しかし、実際に手を下すのはその日、雇われただけの一般市民か誰もがそれと見紛う人物であるに違いない。そして間違いなく実行犯は女である。結果その日、アヴナーは事故を装われて、どこにでもいる普通の彼女に殺されるだろう。彼女は妊婦なのだ。ただ、『ミュンヘン』という映画はついぞその結末を描くことはなかった。