『本気のしるし』レビュー(3)

 『本気のしるし』が描き出す経路の軌跡は徐々に明らかになってきた。ブレッソンであれば、その「経路」はいつも「手」というかたちでもっと如実に顕れていたはずだ。彼の多くの映画に共通するように、人が何かを盗み、手渡し、作業する「手」のクロースアップがひとつの経路を描いてきたし、『バルタザール…』では、荷車を引くロバの前足が「手」から連想され、ロバと交代するように町の中を走る自動車のタイヤと哀れなロバのすれ違いが対比される。
 「手」といえば、『本気のしるし』には、一路が峰内を、浮世が一路を平手打ちする印象的なシーンがある。埠頭で対面した三人は、一路自らが浮世に頼るな、正気に戻れと諭すつもりで峰内を平手打ちし、今度は驚いた浮世が一路を殴り返す。テレビドラマであることを考慮すると当たり前なのだが、ほとんどが会話劇として進行するこのドラマにはっきりとアクションが登場することは稀で、それゆえに重要なシーンのはずだ。しかし、この平手打ちは俳優の背中に隠れるようなドタバタとした動作となるだけで、全く綺麗に撮られていない。なぜこんなことになっているのか。例えば、殴るものと殴られるものとを素早く切り返すような方法を思いつくこともできる。そこでそもそも『本気のしるし』には対面シーンでのカットバックが極端に少ないことが思い当たるのだ。
一例として、水道局の作業員の男と浮世がカフェで話している序盤のあるシークエンスは例えば典型的な会話シーンにもできたはずだ。しかし、そこに一路が駆けつけ、浮世と作業員の前に一路が登場し、彼が浮世に席をずれさせ、そこに給仕の女が二人の会話の一部始終を見ていたと報告し、作業員が文句を言って逃げ去るというふうに会話の内容どころか画面には絶えず人の出入りばかりが描かれて忙しい。
画面はちょうどニーショットと呼ばれるような、人の頭頂部から膝下あたりを写した平面的な画面に複数の俳優が出入りして、役同士の関係よりもフレームの内と外とを意識させるような設計をしている。こうした工夫は映画よりもむしろ撮影された演劇の舞台を想起させる。フレームの内/外というのも、舞台の表/裏を連想させる。

http://ecrito.fever.jp/20180613225042

以前に、深田晃司の別の作品についての評を書いたことがある。詳細は省くが、深田の過去作には同様のニーショットの会話シーンによってシークエンスとシークエンスの間の展開を省き、ある人物の生死や、恋愛関係の真相、二つのシークエンスの間の経緯をすっぽり省いてしまうような演出が垣間見られた。これはやはり演劇の舞台の裏/表のようなものを想起させる。この評では深田の作風が人間関係同士の対立よりも日本語特有の曖昧なやり取りを際立たせるためのものではなかったかと結論している。しかし、『本気のしるし』ではもう少し別のアプローチがとられている。
『本気のしるし』には、これまでの深田の作品にはなかった種類のショットが散見される。例えば、自宅のベランダからこちら側をストーカーのように観察している浮世の夫を発見した一路が、家の向かいの駐車場まで降りていって夫と口論するシークエンス。それをカメラはベランダから動かず、まるで道路に設置された監視カメラのように二人の諍いを遠景からの距離を維持して無機質に捉えている。
他にもある。峰内と埠頭で密会している浮世を発見した一路は一度、彼女を連れ去るが、すぐに道路の真ん中で一路の運転する自動車が停まって浮世だけが降車し、峰内の元へ行くとみられるショット。これも同様にはるか高い位置から画面の中央近くで動く小さな浮世をとらえている。
きわめつけは、一路の会社に押しかけた浮世に浮世の後輩だった藤谷が摑みかかる場面だ。これもまた、本作に珍しい取っ組み合いのアクションが描かれるはずなのだがその迫力を捉えようとはせず、社屋の上階から偶然それを見下ろすことになった一路の同僚の視点を通じて、またしても監視カメラが偶然捉えた事故現場のような捉え方をしている。
これこそ、深田がこれまでの映画でシークエンスとシークエンスの間に隠してきた決定的な瞬間にちがいない。しかし、なぜ彼はそれを決して劇的にではなく無機的に撮らなければならなかったのだろう。(続)

いいなと思ったら応援しよう!