ルサンチカ『エンド・ゲーム』(作:サミュエル・ベケット)

都知事選のことでなくてもいいのだけれど、最近、選挙があったので友人とこういう話をした。結局、誰に、どの党に投票するのかとなったときに、どの人が当選して、どの政党が議席を増やしたら、私の生活にどのような利益があるのか、誰が勝ったら私は得をするのか、そういうことのほうが最近はどんどん強くなってるんじゃないか。代わりに、その候補者なり政党の理念がどうとか、思想がどうとか、もっと言えばそれが勝ったところで世の中がどうなるのかとか、そういうことは今、どうでもよく、そもそも世の中がどうでもよくて、まず私なり、私の生活なりがより良くなるには誰に投票したらいいのか。そういう傾向が一層、最近強くなっているのではないか。

そこへきて、ポリティカルコレクトネスというのは、結局「コレクト」かどうかということはあまり問題でなく、「正しさ」というのはあくまで建前で、ただ「これを正しいと主張することで私が得をする」あるいは「これを正しいと主張しないと私は損をする」という次元で、環境問題にしても、戦争にしても、ジェンダーにしても議論されていて、本音の部分ではすべては損得勘定しかないんじゃないか。大まかにはそういう話をした。じゃあ、昔はそうでなかったのかと言われたらもはやそれがどうなのかもよくわからないけれど。ただ、それが結局、リベラル左派が年々弱いということの理由ではないか。自分のことはよそにしておく理由も、正しい行いとは何かを追求する理由もどこにもないのだ。


選挙で政治の話をしたというのは、単なる与太話だとして。お芝居を見て漠然と考えていたのは、「私」の反対は「他人」だということだ。あるいは私生活の反対は公共である。それで、ベケットの『エンドゲーム』という70年ほど前に書かれた戯曲が現代の東京で上演される意義とは何か。その現代の東京とはどういう場所か。それをそれなりに「私ごと」として考えてみた時、ここは私生活ばかりが優先される場所だというのを漠然と思っていた。お芝居を見ながら考えたのは、この「私でないもの」をこれからどう扱って暮らしていくのか。およそそのようなことだった(あらかじめ言っておくと、私は他人の幸せをみんなが望むようになりましょう的な倫理的な話は一切していません)。

あんまり定かではないが、たしか別役実が、イヨネスコは条理の中の不条理を描き、ベケットは不条理の中の条理を描くみたいなことを言っていた気がする。確かに、ベケットが描くのは、日常生活の中にありえないことが起きるみたいな話ではなく、世界の終末とか、牢獄や荒野みたいな場所とか、あり得ない状況の中でなんとか日常を送ろうとしたり、なんとか「普通の」やりとりをしようしたりする人たちの劇である。それで、その「普通の」って何? となるがそれはまた追々問う。

『エンドゲーム』という劇は、どうやらほとんど滅びて荒涼としたらしい世界にぽつんとある一部屋らしき場所で、祖父、父、息子の親子3代と祖父の伴侶の四人が不器用に慎ましい暮らしを送る様が描かれる。足を引きずり座れないクロヴ、盲目で足が不自由で立てないハム、両足のないままドラム缶の中で過ごすナッグとネル。身体の不自由な四人の人間は家事もつとまらず、食事もまともに蓄えられず、部屋を散らかして、生活することにほとんど失敗している。なぜこんなことになってしまったのだろうか。

ルサンチカ版の演出には、ベケットと、聞いて思い浮かぶような、ズレ続ける会話の喜劇の軽妙さがない。「普通の」会話というものがあるとすれば、それはお互いに何かを前提としてその決まったルールの中で流れていくことができるものだろう。平田オリザが会話とは共通の前提のうえでするもの、対話とはお互いが異なる存在である前提でするものみたいなことを言っていたような気がするけれど、ハムたち親子の会話はむしろ互いを身内だと思って邪険に扱い、つまり相手の話を聞かずに自分ばかり語ろうとするから、どうも噛み合わない会話が続いていくようなのだ。

それで思うのは、この人たちは男ばかり三人集まって、目の前の具体的な私「生活」もできない。そうして目の前の私の生に失敗し続け、その代わりに何をするかというと、「物語る」試み続ける。思ったのは、『エンドゲーム』のテーマが「物語る」だとすれば、それは決して倫理的なものでも、政治的なものでもなく、ただ「物語る」というのは他人の生を試みることではないのか。ネッグなら誰かから聞いた冗談のような、他人の話を試みるし、ハムなら、自分のことを他人事のように語る、「年代記」にとらわれる。

それから、その話は失敗し続ける。失敗するので、上演としては物語の内容はなく、物語ろうとするそぶりばかりが途切れ途切れに連なる。たとえば、ハムなら「違うな。ここはもう喋った」となるが、つまり物語りの失敗とは、自己言及で、メタ化なのだ。それは、終わる前に自分で自分に評価を下してしまうことである。そもそも「おしまい。終わりました。終わりそうです」という語り自体がすでにメタ発言なのだ。
ルサンチカ演出は、繰り返しになるが、この文脈化しそうになっては、することなくずれ続けてしまう会話を、ズレそのものとして喜劇化せずに、無理に相手をそれを伝えようとして叫ぶので、悲痛なコミュニケーション不全のほとんど悲鳴となった会話を連綿とつらねている。その結果、伝わることに失敗してメタ化していくセリフとは裏腹に、それを叫び続ける本人たちの身体が今ここに残り続けることばかりどんどん際立つ。肉体はメタ化しない。ベタのままこの生活に、いつまでも残り続ける。ほとんど女性が重要な役割を担うことに失敗し続けるこの劇において、生活に失敗し続けるのは男の肉体ばかりなのだ。
ハムの話からすると、クロヴは彼の息子ではないらしい。するとハムとネッグの血縁も怪しい。しかし、そういう家族の血縁の怪しさは、この家族の「実は家族ではないのではないか」という結びつきの弱さにはほとんど見えず、子どもなど産まなくてもいつかよそから新しい「息子」が持ち込まれる、男ばかりの増殖方法に見えて、女性を排除した構成が際立つ。窓のモチーフにしても、父と子という構図にしても、もちろんキリスト教を意識しているであろうベケットが、男ばかりの暮らしが生活力の乏しさという喜劇を発揮し続けることをどのくらい意識してひりひりと書いたのかはよくわからないが、今回の上演では、そればかりが気になった。
だとすれば、男ばかりで生活に失敗して、物語ることにも失敗するが、失敗の身振りばかりが連なっていくというのは、終わらないための儀式ではないのか。つまり、物語ることに成功してしまっては本当に終わってしまうことを、いつまでも語ることができないのでいつまでも終わることができない。それは、(私)生活の中で子どもを産んで育てていく生物としての「続く」ことへのささやかな抵抗ではないのか。
とりわけ、この配役は物語ることが男性のものであることに紐づいている。そこで、子どもを産んで子孫を残すことは女性に紐づいている。そのような構図はいかがなものかと思うが、終わらせないこと、続いていくことに執着し続ける男たちの物語は、喜劇にならない熱血ベケットとして上演されている。ルサンチカ版の演出からはそのような印象を受けた。
結局、私生活を大事にするということは、この「私」が死んだら何も残らないということなのだ。今目の前の私とこの生活だけが大事なのであれば、その一人の寿命の先には、何も残らないということなのだ。物語るということは、血のつながらない息子やその息子に何を託すのかという素朴でストレートな劇がここでは試みられていると感じた。

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