見れない映画15:『セザンヌの犬』を読む(後編)③;かたちは思考する
・「かたちは思考する」のこと
『セザンヌの犬』を読んでから、なにか絵画に関するものが読みたいと思って平倉圭『かたちは思考する』をまた読んでいた。この本を前に読んだのは小田香のドキュメンタリー映画『セノーテ』の作品評を書いたときで、何か言葉の外で思考する道具立てがほしいと思っていたときだった。
平倉の論集は、書き下ろしの序章で自らの方法論を宣言するところから始まるのだが、彼は芸術は「人を捉え、触発する形を制作する技、またはその技の産物」と定義する。彼がそうと決める芸術の「かたち」は人に依存しない。文化人類学の知見を引きながら平倉が試みる「芸術」を再定義とは、芸術形式をまずは作者から、それから人間から解放することにあるようだが、私なりにそれをこの日記の第9回で考えた伊藤亜紗の『どもる体』で考えていたことの引き継ぎとして思考してみたい。
必ずしも人間によるものではないし、事故や、自然現象と混じり合いながら特定の力が加わったかたち=諸要素の配置を、平倉は「布置(disposition)」として定義する。続いて「布置」を捉える知覚を「抱握(prehension)」と呼ぶ。「かたち」には、例えばカラヴァッジョの「メデューサ」の絵のように叫んでいる女の絵を見てこちらもつられて同じ恐ろしい顔をしてしまうその「つられ」のようなものとして「巻込」が発生することがある。「巻込」と合わせて、モワレ=二つの周期パターンが組み合わさることによって生まれる第三のパターンが、詩における韻のようなものとして、「かたち=布置」にまつわる思考の修辞のようなものとして提案される。そこで私は作品鑑賞におけるこの「巻込」に最も惹かれた。
『どもる体』で考えていたことから言えば、ままならない身体の日常現象として思考すれば「巻込」とは、乗っ取られなのだ。
言葉のリズムという修辞に「乗れ」ず、形式と中身が齟齬をきたしてコミュニケーションがどもるとき、リズムに合わせてそれに乗ることでどもりを解消できる可能性があるが、その過程で身体はたびたびリズムのほうに乗っ取られるので、『どもる体』では、吃音者がそこで乗っ取りを解消するために、再びどもることを選ぶ事例も紹介されている。
どもる自分の体のリズムと、コミュニケーションに乗るリズム、その行き来にまたもう一つのパターンが生じて心地の良いパターンに落ち着くのであれば、それ自体がモワレ構造を持ちうるかもしれない、そのように考えるのが平倉と伊藤の接点のような気がした。
じゃあそのときに、「普通」とか、「常識」とはなにかということだ。コミュニケーションであれば不特定多数の人とやりとりする暗黙の共通前提=常識があるはずだ。
平倉が「かたち」において思考する三つの事例を並べてみる。
①平倉が詩に準えて提案するモワレの事例が興味深い。グレゴリー・ベイトソンを引用しながら、通常の三段論法「人は死ぬ/ソクラテスは人である/ソクラテスは死ぬだろう」と対比する形で、草の三段論法(「草は死ぬ/人は死ぬ/人は草である」)というものが登場する。前者の三段論法が主語(「人」と「ソクラテス」)のカテゴリーの同一性によってなされるのに対し、後者は述語(「死ぬ」)の同一性によって人と草を混同する誤りに陥るのだが、ベイトソンの事例の中では、精神医学者E・フォン・ドマルスが統合失調症患者に見出した症例(「フォン・ドマルスの原理」)として紹介されている。
平倉はこれを、「一見まったく異なると思われたものの中に隠れたパターンが現れる」ことで生じる前言語性への遡りとして紹介する。
②次に登場するのが、「大地語」の事例である。エドガー・アラン・ポーの長編小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』では、たまたま文字のように見える洞窟の壁の剥落を目にした漂着者たちが謎の死を遂げ、その記録を読んだ別の者が、洞窟の壁にあったのはやはり文字ではないかと述べる、という話だ。平倉がここで示そうとしているのは、言語以前に遡ることで「文字のように見えるもの」を読んでしまうことで陥る狂気の話である。
③また別のところで、平倉は「思考とは、外から捉えれば、環境とのギャップに際した一つないし集合的な知覚行為体が、何も描かれていない画布は、描く人の前に広がる未規定のギャップ=問いであり、他でもありえた潜在的な諸可能性から、特定の布置が実現していく過程自体」と定義する。具体例が「山歩き」である。山道を歩くときの体の動きは、環境から大きく影響を受け、街中や家の中を歩くときと別の「かたち」を強いられるものの、そのいちいちは意志的な変容ではない。そのようなかたちで、彼の定義する思考は意志によって遂行されるそれよりもずっと広い範囲をカバーする。
以上三つが、「かたち」へと巻込まれる、あるいは「乗る」ことで変容する身体の話なのだが、③「山歩き」は常識的なものだとしても①「草の三段論法」と②「大地語」は狂気の沙汰である。
続けて読んでいくと、平倉の詳細で理知的で学者然とした個々の芸術作品評を読むことになるのだが、作品についての詳しい説明は、「説明されたけれど、だからなに?」という気持ちにもなる。というのは批判ではなく、作品についての「説明」というものの立ち位置がいまいち私にはわからない。
こういうふうにも言うことができるかもしれない。
芸術とは個別のマイナーな狂気であり、常識とはメジャーな狂気である。というようなことを考えるとき、私は正気と常識を識別する。正気/狂気、非常識/常識という対立構造があり、なにかのモデルに等しく合致すると生身の人間は狂ってしまうので、「自分はちょっと変わっているところがあるかもしれない」とか「自分はちょっとおかしいのかもしれない」くらいに疑って生きている人間は正気である。
だから、自分は常識的だと信じて疑わない常識人は狂っている。ここで言えば常識の定型に巻込まれている、というようなことを今、考えている。
コミュニケーションの問題だとすると、コミュニケートできるメジャーな狂気としての常識は指摘されれば「あれのことね」となるとしても、コミュニケートすることのできない個別の狂気である芸術はひとつひとつがそのまま行き止まりではないか。というのは、芸術が行き止まりであるという話ではなくて、平倉の(具体的に言えば、「模倣体」というものをつくりだすことへ向かう)方法論がその先になにを期待しているのか、いまいち私にはわからない。とても詳細に読む。しかし、それからどうする? と思うのだ。
・「嘘と妄想」のこと
『セザンヌの犬』を読んでいる時に、古谷の『偽日記』にあった「フィクションには嘘と妄想とがあり、嘘は状況をコントロールするために使われるフィクション」という主旨の記述を私はお守りのようにして、『セザンヌの犬』を読んだ。古谷とリンチとはそれでどうしても妄想の作家である。
だから、『セザンヌの犬』の後になにか「嘘」の話が読みたいと思って小川哲の短編集『嘘と正典』を手に取ったら、これがどれも父親とその子どもの継承の話であることに妙に納得をした。
『魔術師』の奇術、『ひとすじの光』の血統、『ムジカ・ムンダーナ』の曲は明確に抽象的なパターンが世代を超えて継承される話だし、『魔術師』はわざと自分の人生を破綻させることで未来予測を完遂する奇術師の話であるという点では特に、幸福よりも善よりも制御を優先することがテーマになる。『時の扉』と『嘘と正典』はより大きなスケールで、やはり時間を超えて偶然を排除する物語であるから、特に『嘘と正典』に関してはこれは「嘘の正典」ではないか、と思ってしまう。
つまり、「これこそが正典であるという嘘」が父から子へ受け継がれるというコントロールこそがこの短編集のフィクションの形態の一つである「嘘」の性格を際立たせていると思ったし、そう思った時に父から子への「正しい継承」、つまり嫡子というのが「嘘」のフィクションであると思った。
と、いうことを考えたのは、『嘘と正典』ではなく最近、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を流行りにのって読み返していた時だが、10代の頃にはわからなかったこの決して過剰になることなく次から次へとモチーフを接いでいく技術の塩梅が心地よくて本当に面白いと思いながら読んでかなり幸福な読書体験だった。
それで中盤の、『おれたちが坊主と戦ってるのは、自分のおふくろとだって結婚できるようにするためさ』というところで心底感動した。
100ページちょっと読んだところで「町長」、「兵隊」、「警官」という単語が、集落マコンドの生活に突然登場して「選挙」が始まり、「革命」を目指して「戦争」になだれ込んでいく。手の先、足の先くらいしかなかった生活の中にこういう語彙が流れ込んで、それまでただ生活をしていただけの人が急に「革命」など目指せるものだろうかと違和感をしっかり持ちながら読んでいくと、『おれたち…』のセリフが突然、その違和感の理由を説明する。
近代の小説はこういう小説のテーマを作中の禁止ワードにして語りを進行することが多いけれど、その「ワード」がこうして解禁されるところで、ああそうか、この人たちは近親相姦がしたいがために命をかけて戦争をしているんだ、と思い、その情熱的な倒錯に私は目頭が熱くなった。そしてそれは禁止ワードの解禁でもあるから、前半3分の2くらいまでの実質の主役であるアウレリャノ・ブエンディア大佐の前でこの禁句が破られたことで、つまり他人からその言葉を聞かされてしまったことで、革命についての個人的な動機が他人に共有され大きなうねりを持って実現しそうになるその瞬間に、そのうねりの中心で、個人としての彼の熱は急速に覚めて倦怠に陥る、小説がモダンな形式からポストモダンへと一気に展開し、そのとき本当の孤独が訪れることにもまた感動した。
何が言いたいかというと、この人たちは近親相姦(いとこ同士の結婚)を達成するために引っ越しまでして、不倫や婚外子がそこらじゅうに生じるような集落をつくって、教会や都市のそれとして「制度」が彼らを追いかけてくるといよいよ戦争を始めるようになったので、政治というのは、家族制度を巡ってされる闘争であるのだな、と納得したところで、近親相姦も、不倫も、婚外子も意図せずに、欲動と自堕落によって「そうなってしまうもの」であり、その「そうなってしまう」は政治や制度よりもずっと昔からあるから、根源的に、「生」というのがその「なってしまう」散らかりであるということの気づきと表現に私は感動する。
ロマンチストは「恋は落ちる」などと言うが、その意図せず落ちていく軽はずみさに生そのものの散らかりがあり、こうして「散らかり」の話をするとき、私は性欲と恋とを区別していない、いっときの気の迷いによって恋に落ちるときの精神状態は「妄想」的である。昔、ラシーヌの絶対に駆け落ちしないカップルとシェイクスピアのすぐ駆け落ち心中するカップルの対比の話をどこかで読んだが、もう蛇足なのでこれ以上は続けない。
禁止されるような家族のかたちが結果的に「そうなってしまう」ことを描く物語は庶子の物語であり、それは「妄想のフィクション」であるけれど、その「なってしまう」を理性のよって排除して正統性をコントロールする嫡子の物語は「嘘のフィクション」である、ということを考えていた。
(ただ、嘘のフィクションと妄想のフィクションは別に互いには違反でもないのだろう。騙す側には嘘だとしても、騙される側は妄想にとらわれ、立場の違いで同じフィクションを描くことはできる。とすると、これは単に視点の問題かもしれないと思うが、自分で作った嘘に自分からとらわれていく人というのがいる。というか、プロフェッショナルな演技というのは本来そういうもので、昔知り合いで俳優をしていた人で、俳優というのは自分がそのセリフを言うまで何を言うか忘れていないといけない、ということを言っていたが、そういう人は妄想に囚われた人を演じるというもう一つメタなレベルで状況をコントロールしている。しかし、これはかなり特殊な訓練を積んだ人の精神状態の話であり、それもまた興味深いと思うがまずは、嘘と妄想の対比が視点の違いとしてきっとある。演技という問題を挟んだときに、「自分を騙してコントロールする」という特殊な技能が登場するがその話は多分まだしない。)
・「大地」で起きる災害のこと
『かたちは思考する』に戻る。
「セザンヌの絵画は世界から閉鎖されている。それは技法に自覚的なセザンヌ絵画の必然的な帰結である」として、現実世界の再現であることを否定するセザンヌについての洞察や、目よりも手に導かれて制作するピカソの逸話を読んでいると、モダニズムの延長でストイックな作品分析をしているかに見える平倉の批評は、ロバート・スミッソンの「部分的に埋められた小屋」(1974)と「スパイラル・ジェティ」(1970)をめぐるところでモダニズム批評を否定する。ランドアートという自然の影響を受けざるを得ないもの、特定のメディウムに囚われる限定をされえないもの、作者の死後も変形するものに向き合うことで、作者性とメディウム・スペシフィシティとを否定するとき、作者も作品も自然から被る影響の中に埋没して朽ちていく中でその朽ちていく様子を描写する唯一統一された形を保つ観察者=批評家という像が浮かび上がるように思う。
私が本書で一番面白いと思ったのが、「第6章 断層帯を貫く 熱海線丹那隧道工事写真帖」である。近代的な工事技術が確立される前に、複数の活断層が入り乱れる地層に向けて始められたトンネル工事がさまざまな事故に見舞われるその過程を捉えた記録写真は、どれもいつ崩れるとも知らずその瞬間にしか生じなかった地面の中の人工的な空間を捉えたものである。
この埋没する前の空間を写真は捉えているわけだが、そこからは平倉の「なってしまう」を被る身体をいつも描写する芸術観のようなものが垣間見られる。人工的に大地に「かたち」を刻もうとして、その反撃に合う身体は災害の中で傷つき、病み、変形する。この主題は、椹木野衣の『震芸術論』を読み返して引き比べてみたい。身振りの問題にそのまま言及するとき、平倉にとって「身体」というのもまた、いつ地震が起きるかわからない大地のように不確かで、自分のものとは思えない災害の場所なのだ。そう思うと、セザンヌについての記述の見方も変わってくる。
芸術のかたちというのは、こうして一種の傷である。その外にある自然の影響を受けた身体が指示体に感覚を刻みつけるが、刻みつけられた作品を見て鑑賞者もまた巻き込まれる。そういう意味で、妄想としてのフィクションに巻き込まれる身体というものを私は芸術論として考える。
なんとなくこれをとても雑には、作者の独自性に根拠を求めるモダンへの対抗として、ままならない体とままならない自然にさらされて、災害、病、怪我、死によってずたずたにされうる作品と、それへの診断を下す批評家というのが、平倉の主題として読んだ。
・被る身体として「右利きと左利きの耳」を読む時のこと
『セザンヌの犬』からまた一編(「左利きと右利きの耳」)、抜粋して読む。
説明とか、論述というものと対比をして読むと、古谷のこの文章は普通に面白い、そう思った。普通に、というのは気を衒った小説とか、実験的とかそういうことではなくて身体がぞわぞわするのだ。
三〇年間眠り続けたような気分で14歳のつもりが44歳にいきなりなったと感じて目覚めた男が砂浜で寝転んでいる。クレーンが窓のついた板を持ち上げていて、その先にオフィスが見える。彼が14歳の時に見た、海辺の建物の取り壊し作業だが、窓の向こうに見えるオフィスは44歳の彼が働く職場である。14歳の頃の記憶の中にある錯覚を夢でみる彼は錯覚した風景の向こう44歳の生活を見るのだが、その夢の光景はまた何重にも入り組んでいる。
面白いというのは、入り組みの中にいくつかのサスペンスがある。彼は14歳なのか44歳なのか、ここは部屋の内側なのか外側なのか、これは夢なのか現実なのか、埋まっている身体の半分はどの半分なのか。わからない。わからないが、わかるのは手の形がグー、とチョキをしていること。正気を確かめるように読みながらこの左手をグーに、右手をチョキにしてみると手から小説へ、また「かたち」に巻き込まれる。
それがひとつには、人称の効果であることは「セザンヌの犬」を読みながら散々述べたが、そのようにしてどうしても言葉と身体とは相容れない存在であるので、言葉の外にある身体について、言葉はどのように指し示すことができるのか。
「かたちは思考する」は絵画もまた、言葉の中で読むことができるという話であったとするならば、マイケル・フリードの「演劇性」も、平倉の「殺到」も、「ラス・メニーナス」も、「アヴィニヨンの娘たち」も、小津映画の視線も、「めまい」のキム・ノヴァクや「マルホランド・ドライブ」のナオミ・ワッツやローラ・ハーリングのように映画の外にある生身の女優も、すべて言葉にできない体を志向して指し示す言葉の方の記号である、というのはあまりにも雑で、それを本当に「殺到」とか「演劇性」という言葉で呼び表すことはできないが、言葉の正確さの方ではなくて、そういうふうに呼び表される言葉の外にある身体の「かたち」に今も、いちばんの関心がある。