『本気のしるし』レビュー(4)終
『本気のしるし』において、深田晃司はなぜアクションを、事故現場のように撮らなければならなかったのか。もう少しはっきり言ってみよう。なぜ彼はアクションそのものを撮らないのか。そうだとすれば、彼は何を撮っているのだろうか。実はその何かを撮るためにこの、遥か頭上から道路を見張る監視カメラのような視点こそがこの映画の語りに必要だったのではないか。
先に取り上げたレビューでは、深田晃司『海を駆ける』(2018)のインドネシア人の青年が、意中の女性に愛を告白するとき「月が綺麗ですね」と告げるというエピソードについて触れている。これは、夏目漱石が英語の「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳したという逸話を日系人の青年から聞いて、インドネシア人の男が「月が綺麗ですね」と意中の相手に呼びかけるのだが、文字通りの意味しか伝わらないという話で、インドネシア人が「日本人ならどう振る舞うのが自然か」ということに過剰に適応しようとするあまり、本当に伝えたいことを伝えるのに失敗するという滑稽さが描かれている。これは、言葉の通じない外国人と意思疎通がかなわないというのとは全く別の事態で、むしろ別の国の習慣に従おうとするあまり伝えたいことが伝えられなくなってしまうのだ。一つの仮説としては、親切なゾンビたる『本気のしるし』の一路の人物造形とはこの滑稽なインドネシア人のようなものではないだろうか。
一路はその場しのぎの無難なコミュニケーションを続けるあまり、言葉は通じているが思いの通じない生を生きている。細川が糾弾した彼の瑕とはそういうものであったのではないか。つまり、彼はいつも本気ではなかった。愛を告白すべき場所で「月が綺麗ですね」と形式的にしかものが言えないような人間だった。そうだとすれば、本音を伝えるためにはどうすればよかったのか。「本気のしるし」はいかにしてこの世界に訪れるのか。
それは私たちが生活している常識の外からやってくるものかもしれない。深田はこれまでそれを直接描くことはなかった。彼が描かないことで描いてきた破綻、事後的なストーリー展開でしか示唆しなかったなにかが、『本気のしるし』では初めて真正面から捉えられる。それは浮世の登場シーンだ。唯一、一路から本音を引き出すことに成功する女は線路の上に立ち往生していた。乗り物は、本来なら映画のストーリーを動かすアクションを生み出すはずのツールなのに、彼女は自動車をつかって列車の線路を塞いでしまった。一路が、「月が綺麗ですよ」とその場に合わせて社会の交通を自由に行き来する人物だとすれば、浮世はその交通網を破綻させるために、ネットワークの外からやってくるなにかだった。
なぜ『本気のしるし』において、決定的なアクションシーンが監視カメラのとらえた事故映像のようにしか登場しないのかもおのずとわかるだろう。深田は、私たちが普段、生きている世界を交通網の比喩の中で描き、その通路の事故による破綻としてドラマの転機を描いてきた。
この社会の網目の外からやってくるなにか、というモチーフは濱口竜介や三宅唱といった深田と近い世代の作家にも共通してみられる。そこには、黒沢清の『CURE』(1997)を、後の世代の作家がそれぞれに解釈しようとした反映のようにも見える。しかし、黒沢が俳優とカメラの導線に異様なこだわりを見せる作家であることを考えると、導線の破綻こそがドラマの起点として描いた深田の奇異さが際立つ。
『本気のしるし』において、本当に決定的なシーンは、一路が失踪したあとに訪れる。あれほど無責任で、どんな仕事も続けられなかった浮世が健康食品の訪問販売の仕事をしている様子が失踪の1年後に描かれる。破天荒な登場当初の浮世の人格と地続きに、この社会の経路をくまなく通って一路を探して回る浮世の笑顔に私は、出所のわからない恐怖にも似た感動を覚えた。線路に立ってかつて交通網を破綻させた彼女が今、一路という掛け替えのない存在のために町の地図さえ描くようになった。そしてまた彼女は再び確信を持って線路の踏切に立ち、こちらの交通網を破綻させようとする。この世界の交通網とその外側にあるあちら側の世界との両方を自由に歩くようになった浮世という生き物の軌跡に、赤ん坊の成長とも、ラブストーリーのロマンティシズムとも似て非なるなにかを覚え、喜びと恐怖のまざったような何かに震えを覚えるのだ。(終)