発達障害を理解する~分け隔てることの愚かさ~
ずっと学びづらさや生きづらさを抱える子どもたちや
不器用で自分らしさを固持する人たちを支えると言うことを
深めて生きてきたら
たどり着く結果が「呼称や名称にこだわることがなんと愚か」
であるかと言うことだ。
「発達障害」と言うことばを頻繁に使う私が言うのもなんだけれど、
「発達障害」なんていう言葉はくそくらえだし、
私がサポートしているのは「発達障害」ではなく
目の前の一人の子どもや若者だ。
彼らが抱える苦悩やつらさや不器用さに対しての解決策の提供だ。
もちろん、幼く未熟な頃には顕著に目立つ異質なものかもしれないけれど、環境に合わせて発達、成長し可能性を拓いていくとき
未来は無限に広がっていく。
深刻な障害を持っているとその子自身が顕著に発達、成長していくことは難しいけれど、その代わりその子の環境を大きく変えて行く。
技術革新やイノベーションがおこることも有るかもしれないし、
その子の周りの人たちを大きく変えて行くだけかもしれないけれど。
人間のみが弱いもの、マイノリティーの人へ思いやりを持って関わり、社会で受容し互いに支え合い豊かに生きていくことができるのだから。
だから、お互いが自由に行き来でき、
お互いを理解し、支え合う環境をどんどん増やしてほしい。
反対にどんどん失っている現代社会は
もっと生きづらい社会に突き進んでいるだけのようにしか私には見えない。
「発達障害」を対象にした預かりの場や学習環境ですら彼らの可能性をつぶしているかも知れないと考えてみたことはあるだろうか?
学びの最初の一歩は「模倣」だ。
周りの人たちがやっていることを真似ていくのだ。
だから、大人は子どもたちの見本になるようなことを行い、
子どもたちのその見本を学ばせる。
時には悪い見本も見せ、そうならないようにと反面教師にする。
多種多様な子たち、健常児も障害児もそれぞれが人格を尊重され
存在することが最も効果的な育ちの環境であり、
ダイバーシティーを可能にする。
分け隔てられた教育環境では、
お互いが能動的に関わり、可能性を拓くことは難しい。
「配慮」と言う名の「甘やかし」が知能や学力、生きていくために必要な社会のルールやマナー、慣習などを獲得する機会を奪っていく。
公平に与えられるべき様々な経験の場を提供されないまま
大きくなっていく。
私たちが大人としてまず学ばなければならないことは
自分も含め、社会で受容され、尊重されると言うことだ。
それは、専門的なことをわからなくても十分可能である。
もちろん専門職に就いていれば、
専門的な知識を持っていなければならないが。
その前にどうか子どもたちに良い見本が見せられる環境をここかしこに
作って欲しいと思うのです。
分け隔て、集団にすることでは
決して学びがスムーズに進むわけではないことを知ってほしい。
そもそも学びは個々それぞれで行うのだから。