【同性愛】 家族について考えていた
この夏は、家族について考えさせられる出来事が多かった。
それは親戚や孫など、広い範囲の大きな家族という意味で。
祖母の遺品整理をしながら、私の遺品整理は誰がするのだろうなんてことを考えてしまった。
私が生きているこの先ほんの数十年の間に、日本で同性婚が認められる時代は来るのだろうか。
「ご家族の方ですか?」
緊急で飛び込んだ深夜の外来。受付で「ご家族の方ですか?」と聞かれて、間髪入れずに「はい」と答える。身分証を提示して確認してもらう。「そこの椅子でちょっと待っていてくださいね」受付の人にそう言われて、椅子に座る。
もし、これが同性のパートナーだったら私はただの部外者になってしまうのだろうか、なんてことが頭をよぎった。
天寿を全うした祖母
ここ10年ほどにはなるけれど、祖母を近くで見てきた。遺品整理のとき、祖母がかぶっていた赤紫色のフワフワの帽子を手に取った。その瞬間に、一緒に散歩をした冬の朝たちを思い出した。
まだ祖母が自分一人でご飯も食べて歩けていた10年ほど前、日当たりの良い祖母の部屋は冬でも暖かかった。祖母の住居へと車で通っていた私は寒い外の世界から祖母の部屋に入るたびに、その暖かさがまるで祖母の性格を表しているようだなと感じていた。暖かさとともに香ってくる匂いもすべて、まるで包み込んでくれる体温のようだった。
「外は寒いよ」と言って帽子を手渡す私。「今年一番の寒さなんだって」なんて言いながら私は玄関にしゃがんで靴を履かせる。私のよりも小さいクツ。ベルクロを外すときに自分の幼少期の足元を見た光景がリンクして※『ベンジャミンバトン』を思い出す。しゃがんだ私の肩に手を置く祖母の軽さに、散歩中は私が守らねばなんていつも勝手に意気込んでいた。
足腰が衰えないようにと散歩を日課に決めて、いつも腕を組んで散歩をした。ゆっくりと、階段は一段ずつ。転んで骨でも折ったらもう終わりだからと、絶対に転ばないように私はいつも左腕に力を込めていた。右手は必ず空けておく。とっさのときにちゃんと手が出て守れるように。そんな車や段差に気をつけながら歩く私の横で、ちょっとした自然の変化にちゃんと気がつくのが祖母だった。
「シクラメンが咲いてる。昨日はまだ蕾だったのに」
そうか、この花はシクラメンというのか。花に興味がなかった私は祖母の散歩を通して、季節とともに移ろいゆく自然の美しさに意識を向けるようになった。
ご飯の支度をしたり、一緒に散歩をしたり、ベットから立ち上がらせたりする度に遠慮がちに「お世話かけて、ごめんね。ありがとう」と言う祖母。謝る言葉から始まるところが、なんとも祖母らしかった。体は骨張って体重も軽かったけれど、ベットから抱き起こすときでも、ちゃんとそこにしっかりとして重みと暖かさがいつもあった。
シクラメンの花言葉は「内気」や「遠慮」そして「はにかみ」
そんな花言葉が似合う性格の祖母。
まるで眠るように安らかに
息を引き取る数日前からお医者さんには「今日か明日かも知れません」と言われていたため、祭壇に飾る遺影の写真を探していた。祖母がまだ少し若かった頃の写真にするか、最近の写真にするか。やっぱり笑顔で写っている写真が良いだろうということで、数年前に撮った私とのツーショットを切り抜いて使うことになった。それは私が大学から表彰をもらったときの記念のツーショットだった。
お医者さんに「今日か明日」と言われた日から数日が経ち、酸素吸引機が外れるところまでの回復を見せてから、まるで眠るようにお彼岸の朝に祖母は安らかに逝った。「ちゃんと、おじいちゃんが迎えにきたんだね」なんて母と言いながら、それぞれが密かに泣いた。
はにかむ笑顔
お焼香の順番を待ちながら、遺影の祖母を見上げる。
いま見てみると確かに、写真の祖母ははにかむように、遠慮がちではあるけれど微笑んで笑っていた。そのときも私は冬の朝に、暖かな陽射しのなかで散歩したことを思い出した。冬の寒空でも、腕を組んでいてちゃんと暖かくて確かな重さと温もりがあった。たぶん私はそれらをいつまでも忘れないと思う。
祖母が生きた時代。青春時代のすべてが戦争で埋め尽くされて、戦死した兄弟もいて。終戦後まだ10代のころにお見合い結婚をして、その後も毎日朝早くから夜遅くまで仕事をしながら子どもたちを育てて、孫たちの面倒も気にかけて、そんな時代を生き抜いた祖母。
最期はまるで笑っているかのように、やっと解放されたようなスッキリとした顔をしていた。
祖母が好きだった紫色の花々を顔の周りに敷き詰めて、色とりどりの献花で彩った棺を火葬場へと見送る。私は手を合わせながら感謝の想いを最後に何度も伝える。そして、祖母は骨になった。
生前の祖母の願いから、ごく身近な身内だけが集められて行われた家族葬。久しぶりに親戚一同が集まった場所で、私は家族というものを考えていた。
そして「いま」という時代をも考えていた。
100年後にはみんな骨
私はカミングアウトをしていない。必要なときが来たらそのタイミングで、家族や伝えておきたい人には自然に打ち明けなければならないだろうけれど、面と向かってのカミングアウト! のようなものは、お互いに困ってしまうと感じるからしていない。
それぞれ状況が違うから、本当に私個人の感覚なのだけれども、たとえ祖母世代の人に「私、同性が好きなんだよね」と打ち明けても、おそらく理解ができないだろうと思う。それはいまの時代に「絶対にお見合い結婚」と言われても理解が追いつかないのと似ているような気もする。時代がまったく違うという点で。
だって私自身もこんなに考えて、自分の気持ちを何度も観察してみて、それでやっと気がついて。それの繰り返し。だから理解ができない、受け止められないと仮に主張する人が現れたとしても、そうだろうとも思う。
でも、自分の気持ちを理解できるのは、感じられるのは自分しかいない。
だから私はこの時代を生き抜きたい。もしかしたら100年後の世界では同性愛も「普通」のカテゴリーに "普通に" 入っているんじゃないかと思うときがある。だから私は未来を信じている。
なにが言いたいかというと、100年後にはみんな骨で、あっけない命だということ。それなのであれば、自分がこの時代に生まれてきたことを受け入れて、自分というものを生き抜いていくしかないということ。
見た目も性格も、セクシャリティも生まれ持った身体も割り振られた性別も、この世で肉体を持って生きる上でなかなか自分の力では変え難いことも多いけれど、それでもやっぱりこの自分で生まれてきたことを悔いたくもないし、この自分を生き抜きたいと、私はあらためて強く思った。
時代を生き抜いた祖母の性格
生前の祖母は自己主張も強くなく、我慢強くて言い争いを好まず、どちらかと言えば大人しい性格だと勝手に思っていた。でも私は祖母の最期になって気がついた。祖母はどこまでも冷静でクールで、とっても強い人だったということに。
いつも目の前で巻き起こる物事や争いごとを一歩引いた地点から俯瞰しているような、そんな一歩進んだ人だったのだと、最期に気がついた。冷静で、優しく、どこまでも強い。
それはまるで、寒い冬に咲くシクラメンのようだななんていま勝手に思う。
勝手にこんなことを書いて「シクラメン、特別好きなわけじゃないけどね」なんてクールな祖母に思われてしまいそうだけれど。
祖母。私の母の母。どこまでも尊敬して、感謝している。
焦げ付く日差しからは逃げて、自分が生きやすい場所で
祖母は祖母の時代を生き抜いた。私が生きている時代から、およそ100年前の時代を。そのときに「当たり前」や「普通」とされている枠組みを感じながら、精一杯の生涯を終えた。
じゃあ私もこの100年を生き抜いていきたい。どうせなら前向きに。
年齢を重ねるにつれて将来について悩むことも多いけれど、祖母の最期から生きる覚悟のような生(せい)への気力を学んだ、そんな夏だった。
私が歳をとったとき、そばにいる人は誰なのだろう。女の人だったらいいな。生涯を共にした同性のパートナーで法律上でも家族として認められていて、肉体は消えるけれど戸籍に記録は残るような、魂は繋がっているような、そんな素敵な関係に希望を抱きながら。
おばあちゃん、いっぱいいっぱいありがとう。お世話になりました。ゆっくり安らかに。私も私の道をしっかりと楽しみながら歩いていくね。
家族の大切さについて考えさせられることの多かった夏。
そう思っていたら秋になっていて、もう少し肌寒い季節。そんなふうに人生はあっという間なのかもしれませんね。だからこそ、悩みすぎずに考えすぎずに、明るく軽く自分の人生を前向きに歩んで行きたい。