原発の町にあった実家を思う
実家が更地になったことをGoogleMapで知った。18歳まで暮らした私の家はなくなったらしい。ふと「本籍地、どうしようか」と思った。住所はあっても郵便物は届かない(意味がわからない)。実家の電話番号はまだ覚えているけど、かけてもつながらない。
オリンピックを前にまた立入規制緩和区域が広がった。実家がある場所は中間貯蔵区域から免れたものの、相変わらず帰還困難区域だ。
(上図はNHK クローズアップ現代より)
震災後、実家には二度立ち入った。一度目は友人たちと。テレビで見聞きしていたものと現実とは、衝撃がまるで違った。言葉にならないほどショックだったが、「あ、本当にこの町は終わったんだ」と心の整理がついた。二度目は、祖父のお葬式の前日に母親と弟と私の3人で。おおよそ予想がついていただけにショックはなく、淡々と目に焼き付けた。
10年の間に、祖父が亡くなった。祖母は寝たきりになり、老人ホームで暮らしている。
実家は放っておいても朽ち果てて、いずれ自然に返るのだと思っていた。かつてチェルノブイリ周辺が森に還ったように。家の天井に穴が空いていたし、動物の出入りも激しさを増しているようだった。
指定された期限内であれば帰還困難区域の家を国なのか町なのかわからないが、解体費を負担してくれるらしいという話を聞いた。その辺の話は、両親にすべて通知が届く。そして、残念なことに、そういった通知にすべて目を通すような親ではない。私が親に宛てた封書でさえ、未開封のまま放置する。そういうだらしない親ではあったが、家の解体には踏み切ったようだ。期限を過ぎると、高額な解体費は自己負担になる。だから、いつか家に帰りたいと思っていても、判断を迫られている人は多かったと思う。わが家は、帰るとか帰らないとか、そういう選択ではなかった。原発に近すぎた。あそこまで朽ちてしまった家にはもう住めないし、住まない。
恐らく、避難中に離婚して他人になった元父親が、解体の手続きをしたのだろう。だから、GoogleMapで更地になった航空写真を見たときに「あ、あの人がやったんだ」と思った。母親はわりとあっけらかんとして「そのうち更地になるんじゃね?」とか言っていた。母親は、離婚して避難先の新しい町で、好き勝手やっている。
私が18歳まで過ごしたあの家は、忌まわしい思い出が多すぎる。父親の凄まじい暴力、宗教に狂った母親、まあいろいろあったけど、こたつが宙を舞おうと、熱心に勉強して東京の大学に進学した。熱々のみそ汁を制服に浴びようと、ジャージに着替えて学校へ行き、日々部活に打ち込み県大会にも出場した。帰宅すれば、寝る間を惜しんで趣味の洋裁に没頭した。そして、大学進学と同時に晴れて家を出た。
ただ一つ、気がかりだったのは、12歳年下の弟のことだった。この家で、父親の暴力が小さな弟に向けられることだけは許せなかった。私が社会人になって、高校生の弟を東京に呼び寄せて養うようになるまで、弟はあの家にいた。弟が東京で高校生活をやり直し、人より時間はかかったけど高校を卒業して巣立っていったのが私はなによりうれしい。いつしか弟は、あの家に帰らなくても生きていける大人になった。
10年が経ち、原発の町にあった実家を思う。