朝よ、来い!
不眠症。眠れない人にとっては深刻な問題だが、眠れる人にしてみれば、眠れない=生きているわけで、逆に睡眠は、恐怖の入り口だったりする。
若い頃は夜更かしも不摂生も日常茶飯事だったから、「眠らない」ことが多かったし、ささいなことが気になって眠れないこともあった。そして、社会に出れば仕事で、子どもができると子育てで寝る時間を確保するのも困難になると、バスや地下鉄の移動中でも乗り過ごすことなく、いつでもどこでも寝られるようになった。その技能を熟練させると、下車する直前に起きることができ、時には目的の駅に止まる瞬間に目を覚ます神業的な仮眠も可能になった。
だが、コロナ時代で出張や移動のないリモート生活になると、そんな技術は必要なくなったので、規則正しい食生活の下、夜はぐっすり眠れるようになった。眠れることはありがたいことだし、健康な証拠でもあるが、ちょっとした恐怖感をあおる原因でもある。
その恐怖というのは、いったん眠ってしまうと朝まで起きないことだ。外出する頻度が減ったコロナ渦中、体力は使わないのに、過度のパソコン作業からか疲労度は変わらない。自分の中ですでに特技になっているが、ベッドで横になって消灯すると、1分もしないうちに眠りに落ちる。読書をしても、1ページも読まないうちに睡魔がやってくるし、夜、コーヒーを飲んでも効き目がない。
眠っている間、意識は消える。つまり、言い方を変えれば、それは永眠した状態となんら変わりがないということである。しかも、私は夢を見ることがほとんどない。起きた時に記憶があるから、過去とつながり生きていることを実感できるものの、もし起きた時、記憶が何もなかったら、それは輪廻(りんね)転生ということになってしまう。
これは極論だが、われわれは毎夜1日という短い人生を全うし、毎朝生まれ変わっている。つまり一生は1日という考え方だ。だからわれわれは眠る前に全てに感謝すべきだし、目覚めた時に赤ん坊のような気持ちで1日をスタートすべきなのだ。とはいえ、朝が来ないのは怖い。今夜も「永眠」ではなく「睡眠」できますように。朝よ、来い!【河野 洋】
羅府新報(Vol.33,824/2021年11月23日号)『磁針』にて掲載