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「自己紹介」と「言の葉」のあれこれ

 ドウニュウ、ジコショウカイ。 
キョウミ、ヒユ、ヒユ、ジコブンセキ、ヒユ。


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 前回は俗にいう自己紹介的な文章を書いた。が、例えば私が男子大学生であることや起業家志望であるという単なる情報で、私の何がわかるのだろうか。国勢調査によると、2018年の学生起業家は5000人ほどいるらしい。起業家を志望する起業家予備軍を含めると1万人くらいだろうか。一人として同じ人間がいないことは明確だが、あの自己紹介では没個性ど真ん中である。したがって、友人以外の読者にとって私は今のところ、ありふれた夢を見る学生起業家10000人の中のひとりという認識に留まっているに違いない。

IDとしての文章

 9999の人間と自分を区別したい。生体認証とかいう機械しか分からない情報は使わずに、ヒトの知覚だけで判別してほしい。そう思ったとき、貴方はどうするだろうか。私なら文章でも書く。まあ、個性のある文章がかけるようになりたいという願望が根底にあるのだが。
 流石に、原稿用紙一枚だけで周りと差がつけられるとまでは言わない。そんなことができたら、既に物書きのプロである。しかし、四桁文字の文章を何個も何個も書いて、いくつかを拾ってでも読んでもらったらどうだろう。くだらない個人情報を述べるよりかは自己紹介的な役割を果たし、自分のことを知ってもらうことができそうな気もする。他の9999人との差別化にも光が見えてきた。

興味

 やはり、頭の中を紹介する、真の(?)自己紹介は興味関心から手をつけるのが妥当だろう。私は普段使う「言語」にとても興味がある。日本語には日本語の、英語には英語のニュアンスや語彙がある。そしてそれらの差異はそこに静かに佇んでいる。したがって、それぞれの言語の話者は自身の言語、もっと言えば自分の使用言語の範囲内でしか物事を感じることが出来ないし、表現も限られる。
 それは至極当たり前のような気もするが、その現象は私にはなにか面白く感じられて、私の興味をとてもひく。フランス語では、「イヌ」と「タヌキ」や、「チョウ」と「ガ」を明確には区別しないらしい。日本では別物なのに。それを初めて知ったとき、私のアンテナは反応を示した。確かに日本語でも、英語のcow, cattle, bull, ox,などは、意識しなければ基本的に「牛」でしかなく、「○○牛」は派生語の範疇を出ない。こんな例は挙げればキリがない。

ことばのもり

 言語は森に例えることができると思う。一本の木は根幹となる意味で、その枝葉として言い換えや派生語が生い茂る。根幹が「青」だとしたら「藍」、「紺」、「空色」など。各森林は各言語、森に生える木の種類は語のジャンルといったところか。その森によって、もしくは同じ森でも見る角度によって、木々は表情を変える。色や雨の表現が豊かな「日本語の」森もあれば、動物や暑さの表現が豊かな「アフリカの言語」の森や、音楽・芸術に関する表現が豊かな「ヨーロッパの言葉」の森もあるだろう。 
 大分詩的になったが、とにもかくにも私は、この「ことばのもり」に魅せられ、その結果迷い込んでしまったのだ。多分、全く気にしない人にとってはなんの変哲もない鬱蒼とした木々の群れで、興味はほぼほぼ湧かないどころかうっとうしく感じているかもしれない。彼らは決まった樹木のまわりしか通らないので迷うこともないが、そのかわり滅多に見回さないので景観の美しさに気付くこともない。

採集の差異

 突然だが、私は空気を察することが比較的苦手である。他人の意図をその発言から最大限に汲みとりたいがために、捉えようによっちゃあ揚げ足取りともいえる行動、指摘を頻繁にしてしまう。また自分の考えをより正確に伝えたいという気持ちが強い結果、たくさん言葉をかさねたり、相手の面前で表現を無駄に試行錯誤し、くどくなってしまう。
 一般的には面倒な人間に分類されるそれらの行動の大きな要因は各言語、正確には各個人が千差万別の語彙体系を所持しているということにある。さっきの例えを適用すれば、葉っぱの標本コレクションとでもいえようか。

 ヒトは、自らの葉っぱコレクションから葉っぱを選択し提示しあうことを「会話」と呼ぶ。しかし、同じ日本語の森とはいえ、住む地点が違えば形成されるコレクションは異なるし、複数の森に拠点を持つ人(バイ林ガルのような)もいれば、より多様なコレクションができる。また、拾ったタイミング(文脈)が異なれば、同じ木の同じ枝の同じ葉っぱでも形は微妙に違うかもしれない。そんな葉っぱの性質故に、会話イベントが実施されるときは、相手の提示した葉っぱを一瞬聞いただけで自分の似た葉っぱとして解釈せざるをえない。事務連絡ならまだしも、討論や会議、日常会話は、それだけで本当に会話の内容に同じ認識を持てるのか、私には少し疑問である。改善策は、そのコレクションをじっくり比較しあうほかないと考える。

ある種(タネではない)、コレクター

 私にとっては、他人のコレクションを見せてもらったり、自分のものと並べて見比べることそれら自体が面白く、探求心をくすぐる。したがって時に揚げ足をとったり細かいところを気にしすぎてしまうというのは、私に言わせれば葉っぱコレクションを吟味し、趣味を楽しんでいるともいえる。(もちろん説明の粗雑さにいらだっているときもあるが)
 他の人は、人類がひとりとして同じ語彙体系・葉っぱコレクションをもたないということをどう感じているのか、または何も感じていないのかは知らない。その面白みに共感しろとこそ言わないが、こいつはこんなことを考えているのかぁと理解してくれるくれることで私が面倒な人間に分類されることが多少なりとも減少する可能性はある。

(この葉っぱの列だけは伝わってほしい)

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かのナポレオンは言った。「我輩の葉っぱコレクションに不可能の標本はない」と。そのくらい言えるような自信のある人材になりたいものである。では、また次回。

 

 

 

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