産後うつ記録:「赤ちゃんと過ごす毎日」を夫は想像できなかった
これはわたしが長女をを出産した後、2年半も産後うつに悩んだ記録です。
個人的な問題も多く個人差があるとは思いますが、同じように悩む方やその周りにいる方にとって何か伝われば幸いです。
前回の記事はこちらです。
産後に嫌なことをされると忘れない、なんて言いますが、まったくその通りだと思います。娘が生まれて4年半になりますが、未だに忘れない許せないことがあります。
娘が生後2ヶ月になる直前、自宅へ帰ることになりました。
途中、夫の実家により、お宮参りをしました。
夫の祖父母にははじめての娘のお披露目となり、初孫の顔を見てもらえたことは心から嬉しいと感じました。可愛いベビー服やタオルなども準備してくださっていて、娘の初めてのおしゃれに胸が踊りました。
夫の実家では移動やお宮参りの疲れはあったものの、至れり尽くせりしていただき、わたしはリラックスして過ごしていました。
ところがここで、衝撃の発言を義母がしたのです。
それは、「家に帰ることに決めてくれてありがとうね」という、何気ない言葉から始まりました。
「いえ、わたしもたくさん実家にいましたし」と、答えるわたしに義母は「長い出張もあるのにね、大変だと思うけど、よろしくね」と。
「長い出張もあるのにね」
「長い出張もあるのに」
え?
聞いてないですけど?
振り返って夫の顔を見ると、「ごめん、言ってなかったっけ?月末に1週間出張」
そこが義実家でなければ、「聞いてない!どうして言わないの!!」とブチギレていたでしょう。流石に義母の前ではキレるわけには行かず、「聞いてないよ」と力なく答えるので精一杯でした。
その夜娘を寝かせつけながら、わたしの頭の中はぐわんぐわん揺れているような、不安で目の前も十分見えないような気持ちになりました。
母がいてくれても辛かったのに、1週間もひとりでこの子の世話をしなくてはいけない。朝も昼も夜も、2人っきり。料理する間も、入浴も、夜泣きも。全て自分だけでこなさなければいけない・・・
できないできないできない・・・とてもできる気がしない・・・
娘を抱きながら、こうなってしまった理由を考えました。
夫は娘と2人だけで過ごす大変さを知らない。可愛い姿しかほとんど見ていないし、ひとりで向き合う時の責任感や緊張感を知らない。だから、この子と2人きりで1週間も過ごすということの恐ろしさが、微塵も想像できない。
仕方ない。と思う一方で、彼の想像力の無さに呆然としました。
このまま実家に引き返したい。けれど、両親はもう実家に帰ってしまったし、夫はわたしたちの帰宅に歓喜している。
なにより、「娘と2人ですごすのが辛いから実家に帰りたい」なんて、母親としてダメすぎて口に出せない。
結局、予定通り翌日家族3人で自宅に帰りました。
ただ、この時に自分の「帰ってきてほしい」気持ちが先に立ち、「低月齢の赤ん坊がいる頼り先のない家庭で、夫が1週間も帰宅しない」ということがどれほど大変なことか、微塵も想像しなかっただろう彼に対して、わたしは強い不信感をいだくことになりました。
冒頭で書いた通り、この時のことは今でも夫婦喧嘩をすると思い出します。というか、むしろこの時のことが不信感となって、わたしの中に澱のように漂っているように思います。
もちろん、わたし自身彼に「赤ちゃんとの生活がしんどいこと」「夫に助けてほしいこと」などを伝えるべきでした。それについての反省点はあります。
ただ、一つ言い訳をしたいのは、はじめての育児で「母親なのだから」に支配されていたわたしは、「母親なのだから育児の弱音を言ってはいけない」「母親なのだから、赤ちゃんのことは可愛くないといけない」と本音を口にできない心の状態にあったということです。
そしておそらく、この心の状態ははじめて育児をするお母さんのうち、かなりの数の人が経験するのだとおもいます。
ちなみに、夫とは出産前から「母乳以外の育児はお父さんもできる」として、「なんでもするから、任せて」というやり取りをしていました。
そういう心持ちがあったとしても、実際に変貌した毎日の生活を彼は想像できなかったのです。
いえ、「想像できなかった」として、仕方ないと許すつもりは今もありません。
わたしの発言から想像できなくても、4年前といえばあらゆるSNSがありました。だから、手元のスマートフォンで検索すればよかったのです。
『産後 お母さん』『産後 妻』『育児 何が大変』
おそらく、この程度のワードを検索しただけで、山ほどのお母さんたちの愚痴や嘆き、奮闘も目にすることができたはずです。彼女たちはわたしではないけれど、わたしの状況を理解するためのひとつの手段にはできたとおもうのです。
もちろん、他の手段でもいいのです。とにかく、わたしは彼にわたしの状態を「理解しようと」して欲しかった。夫は、育児についての情報を積極的に収集しようとしたり、母子のことについてしらべたり、そういうことをまったくしていませんでした。それは今も。
理解できなくても、いいのです。わたしたちは別の人間だし、家庭内での役割もちがいますから。
ただ、自分には理解できないことだからこそ、理解できないことをパートナーががんばっているのだからこそ、「理解しよう」とする努力をしてほしいという気持ちが拭えないのです。
「寄り添おう」「知ろう」とする。
「寄り添う」「理解する」ができればもちろんベストです。でも、そうしようとする姿勢だけでも、信頼感が上がって嬉しい気持ちになれるのです。
この時のズレが、その後わたしの心をどんどん押しつぶして行ってしまいます。
そしていよいよ、産後うつらしい心の状態になって行ってしまうのでした。
それは次の記事に書いていきます。