産後うつ記録:里帰り期間中、最大のトラブルが起きた
*これはわたしが長女を出産したあと、約2年半もの間産後うつに悩んだ記録です。
個人的な問題も多いため、人によって事情は変わると思いますが、同じ産後うつに悩む人やその周囲の人にも、何か伝われば幸いです。
前回の記事はこちらです。
両親は昭和30年代生まれ、かつかなり頭の硬いタイプ。
娘の体調や夜泣き、ケアなどに不安があって相談しても「そんなん普通や」。
産院で聞いてきた赤ちゃんの生活に関する指導について説明しても、「昔はそんなことせんくても元気に育ったよ」等。
「30年前と今は違う」とでも言おうものなら「じゃあお前の好きにすれば」となる。
どうしていいかわからず頼れずにいると、「母親なんやからちゃんとしろ」。
もうね。
どないやねん!どないすれば満足やねん!!
うまく頼れずに、実家にいながら孤独に育児をしていたわたしは、いつしかこんなことを思うようになりました。
「もう、この人たちを信用できない。この子はわたしが守る」
自宅に帰る日まで、トラブルなく過ごすことができればいい。
眠れない生活の疲労と、親との関係のモヤモヤでぐったりしながら、残りの実家生活を送っていた時でした。
ある日の夕方、携帯が鳴りました。相手は母。
平日の夕方、母は自動車を運転中のはずの時間なので、不思議に思いながら耳に当てました。
母「ごめん、あの、事故してしまってさ」
私「?!」
母「色々せないかんことがあるから、遅くなるわ」
私「大丈夫なん?」
母「私は大丈夫なんやけど。あ、父には言わんといて。怒るから」
私(いや、あと伸ばしにしてもバレるやん!)
当然、帰ってきた父はなぜ母はいないのかと聞き、遅くなるようだと伝えるとイライラとしながらテレビをつけました。
「じゃあ、じいちゃんのご飯はどうするんや」
じいちゃんというのは、当時同居していた祖父ですが、祖父は長年の独居の結果マイルールがあって、18時に夕飯を出さないといけないのでした。
正直なところ、「はあ?」
とでも言ってやりたいのを、グッと堪え「じゃあ何か作る」
娘は当時黄昏泣きがひどく、その時間はグズグズといつも抱っこから下ろせない日々でしたが、父に任せました。
父はバウンサーに娘を寝かせ片手間に揺すりながら、イライラとテレビを見るともなしに見て、時々母に連絡したりしていたようでした。
人数が増えればマイルールだけでは運営できないことがわからない祖父に。
料理をすることも、買ってくることもできるのに、自分が動くことはせずソファに座って不機嫌をばらまくだけの父に。
自分の父親に対し、「今日の夕飯は遅くなる」と伝えることもできない父に。
大変な状況を作っておいて、自分で父に連絡もしない母に。
なにより、そんな両親や祖父にうんざりしながら、泣いている赤ちゃんより大人の事情を汲んでしまう自分に。
心の底からうんざり。
結局、母はかなり遅い時間に帰ってきました。
(オロオロしている間に野次馬が勝手にレッカー手配とかしてくれて、結果めちゃくちゃ厄介なことになったらしい)
父はずっとぶつくさぶつくさ文句を言い、時には母に電話をかけて電話口で怒鳴り付け(うるさいので事故と教えた)、
ロクでもない夜は更けました。
この時から、わたしはこの家に長居してはいけないと思うようになります。
まだ新生児の我が子よりも、高齢とはいえ元気な祖父や父の機嫌が優先されてしまうこの実家。
母には悪いけれど、自分にとっても娘にとっても、ここにいることはストレスになる。
なにより、もし娘に本当にトラブルがあっても、祖父や父の事情が優先されてしまうかもしれない。
これ以上親の顔色を伺い続けては、娘に悪影響が出るかもしれない。
わたしには、出産のために里帰りをさせてもらえる実家はありますが、その実家は結婚・妊娠前に思っていたより、居心地の良い場所ではありませんでした。
自分に新しい家族ができ、小さな命を芽吹かせたことで、わたしには実家よりも大切なものができていました。
両親との家族が「家族」だった頃は、両親の顔色を伺って、その枠の中で反抗したり頼ったりしていればよかった。けれど、もっと守らなければいけないものを得た時、両親と自分とのあり方に疑問と息苦しさが生じました。
産後うつは育児を抱え込む事が問題のようによく言われますが、わたしのように「両親に頼れば安心」という自分の気持ちそのものが思い込みで本心ではないということもあるかと思います。
自分が本当に頼りたい相手、助けて欲しい相手は誰なのか。本当に頼りになるのは誰なのか。
それはとても大切なことでした。
それなのに、わたしはなかなか自宅へ戻ることはしませんでした。結局帰宅したのは、娘が生後2ヶ月を迎えてからだったのです。