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水野南北*福禄寿の思想③天と地が人に与えてくれるもの

江戸時代の小食主義/若井朝彦著
の読書録の続きです。南北の福禄寿の思想についてのまとめ3回目
③天と地が人に与えてくれるもの
南北は天を信頼しており、人は天というものがいのちを吹き込んだものだと考えていたようです。
「古人はこういうことを言っている。天は無禄の人を造らないと(修身録1-1)」
南北の小食主義の基本となる考え方に人間は一生を通じて食の量は決まっているというものがある。だから、長寿のためには食を減らしてその分を先に延ばし、また徳を貯えその徳によって更にいのちの根源である食を得よ、という考え方だ。また
「命は天上のものだ。食や禄は地上のものだ。人がこれらを享ける(うける)ことを福禄寿を保つという。その分限の上下に関わらず、あらゆる人には福禄寿が具わっている。福と禄と寿はもともと同じものであり、生まれながら人に具わるものである(修身録4-13)」生まれながらに具わっているのだから無禄の人はいないということなのですね。もちろん福がない人も寿がない人もいないということになる。
続いて五常という儒教で人の守るべき五つの恒常不変の真理について南北はこう言っている。
「仁義礼智信の五常というものは人にとっては杖のようなものに過ぎず人が人として立つことができるのはただ天地の徳によってである。この徳の根本を知る者には自然と五常も具わっているものだ。
命というものは天から下された徳である。この命を養ってくださるのは地の徳である。人が生まれそして育つというのは天地の徳あればこそである。この天地の恩を知るものは父母の恩もまたおのずと知る。そして、父母の恩を知るものは生命を尊み、飲食を尊み、したがって五常もすでに具わっているといってよいのだ。大人(たいじん)は食を通じて天の明らかなる意志を知る。ゆえに安泰である。小人(しょうじん)は食につまづいて大事を見失い天の意志を損ねる。ゆえに困窮を招く(1-24)」
南北は五常を軽んじているのではなく順があるといっています。
先程、福禄寿は生まれながらに具わっているとあったが、生まれつきの分限の上下はあるが、そこから幸せになる人不幸になる人の違いは何か?賢者は天地から受ける恩を知り父母の恩を知る。そして食を通じて天の明らかなる意志を知る。ゆえに安泰であると。生かされていることへの感謝なんですね。言われて尽くされてることですが忘れがちなことです。
まず「命」が天から与えられたものであることを知り、地が命を育んでくれていることに気づき天地が人に与えてくれる「徳」というものに感謝する。それができて初めて人は人として立つことができるのだと。そしてそうなると、世間を生きてゆくために必要な「五常」を杖として進んでいけるのだと、南北先生は言っているのでしょう。ただ、食の慎みを破るとすべて失う……。怖っ(ーー;)とにかく食を慎め、と。
南北先生了解しました( ̄^ ̄)ゞ
昔から腹八分目や半断食が身体に良いと言われています。が、わかっちゃいるけど美味しいとついつい食べ過ぎる。だけど、南北先生のこの「人間は一生を通じて食の量は決まっていて云々」という考え方、嘘か本当かは別にして私にはとてもしっくりくるのです。身体にいいからとか、デトックスとか、浄化とか、瞑想が深まるとか、本当にいろんな理由で小食や断食を勧められますが、なんかあまりピンと来ないのです。
でも南北先生の一生を通じて食の量は決まっているという考え方を知ったとき、なるほど!と妙に納得したのでした。
次回はラストの4回目
④福禄寿についてです。

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