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投稿コンテスト#推したい会社「株式会社 坂ノ途中」

先日、pino(おくさん)が、「こんなのやってるよ〜」と、このnoteの「推したい会社」企画を教えてくれた。

「推したい会社」と言われて、まず思いつくのは、そりゃぁ「坂ノ途中」だろう。

まぁ書いてみるか、ということで、さっそく内容を考え始めた。同時に、これがどういう企画なのかな?とも思い、概要ページに載っている見本の投稿や、過去に実施された受賞作品などを、ざーっと読んでみた。

(ふむふむ、なるほど、そういう感じか。そういう感じに書けば、審査員にウケるのか。お、受賞すれば賞金もあるぞ。)下心というのは、知らないところで生まれるものらしい。そんなことにも気づかず、僕は文章を書き始めた。

まずは全体を書き、その後何度か読み直し、いわゆる推敲っぽいことを重ねていく。途中、書きながら気付いたことなんかも生まれ、なかなかいいのでは?と思えてくる。約2000字の推し文が、数日でできあがった。

このまま投稿してもいいけれど、一応pinoに読んでもらおうか。さらなるブラッシュアップが期待できるかもしれない。

そう思い、スマホでnoteの下書き画面を表示し、こたつに座っているpinoに渡した。僕は料理の続きを始める。

数分後、なぜかpinoがしぶい表情をしている。
どうだった?と聞くと、「......う〜ん」と。

これはマズい。明らかに言葉を選んでいる。「おもしろくない」の変換に逡巡している。少し待って出てきたのは、「小難しすぎて、まーしーっぽい文章じゃない感じがする」。

あらー。久しぶりに図星を食らった。たしかに、カッコつけて、というか、背伸びして書いていたわ。やっぱり、そういうのは見抜かれるものなのだ。こういうときのpinoは頼れる。

ということで気を取り直し、できるだけ素直に書いてみようと思う。はじまり、はじまり。

「株式会社 坂ノ途中」は、[100年先もつづく、農業を。]をビジョンに掲げ、それにまつわるさまざまなことをやっている会社だ。

例えばそれは、環境負荷を考えた農業の発展であったり、新規就農者への支援であったり、お野菜セットの定期宅配であったり、国境を越えたコーヒー事業だったり、小さな八百屋であったり、本屋と飲食店が一緒になった不思議なお店であったりする。

一言でいうのはむずかしいこれらの事業は、まるで、持続可能な農業と暮らしの「生態系」を作っているような印象を受ける。

だからふつう、坂ノ途中を推すときには、そういう地球規模のマクロな視点が語られるのかなぁと思う。

ただ僕は、坂ノ途中のスタッフではないし、農家でもない。坂ノ途中のお野菜セットを利用しているユーザーであり、それを料理して食べている生活者だ。

なので、たくさんの切り口がある中で、そういう立場からの「推し」を考えてみる。

(飲み会で、どうしてその人のことが好きなの?という質問に、えーっと、と考えながら答えるような感じでいきましょう。「法人」って言うし、ね。)

まず、彼(擬人化)のいいところは、届けてくれる野菜がおいしいということ。もう、これにつきる。

いくら好きな人でも、一緒にいて楽しくないと、やっていけないじゃないですか。それと一緒で、いくらいい野菜でも、おいしくないものを毎日食べることはできない。「毎日食べる」という行為の持続可能性において「おいしい」は、無視できない要素だ。

いつだったか、はじめて彼の野菜を食べたとき、「え、うまっ、こんなんもう、焼くだけでいいやん」と言ったのを覚えている。一目惚れだったのだろう。

ただ、ここでの「おいしい」は、とりあえずめっちゃ甘いとか、一糸乱れず同じ見た目をしているとか、いつ食べても変わらない味とか、そういうことではない。季節の影響を受けた、ちゃんとした素材の味がする、この野菜はこういうやつなんだろうなと、素顔が見えるようなおいしさだ。

つねに結婚式に参列するときの身だしなみ具合より、家でリラックスしているときの自然体感がある方が、付き合いやすいじゃないですか。そういうおいしさであり、これは一度食べてもらったら、わかるはず。

それともうひとつ、彼のいいところは、距離感がうまい。

例えば、僕はナスが好きだけど、真冬にナスとは会えない。夏にひたすら揚げていたナスも、いつのまにか届かなくなる。一方で、年を越して春が過ぎ、久しぶりに再開したときには、「おぉ、ナスが来た!」と、けっこう感動する。

この、食べられない期間があるというのは、不便に感じることがある一方で、僕の中のナスの価値を上げる。結局、会えない時間が愛育てるのだろう。(古い)

ちなみに、旬の時期には飽きるほど食べて、ほんとにちょっと飽きてくる、という体験もけっこう好きだ。「またいつでも食べられる飽き」と、「しばらく食べられない飽き」は、似ているようで違う。

本来、あらゆるものは「期間限定」であり、それは人為的にコントロールされるものではない。彼は自然のリズムに忠実なので、そういうことも教えてくれた。

さて、ここまでに書いた、おいしさと、距離感(自然のリズム)に加えて、もうひとつ大事なことがある。それは、彼が「いい人かどうか」ということだ。

もちろん、「いい人」という枠づけは、曖昧だし主観的だけど、少なくとも、「それはしてほしくないなぁ」という線引きはある。

例えば、自分のことを考えて選んでくれたプレゼントであっても、盗んだものだったり、人を騙して得たお金で買った、というのは、さすがに受け入れられない。店員さんを困らせて、強引に値引きしたとか、列に割り込んで買った、とかもイヤだ。

それと同じで、おいしいと思っているこの野菜が、実は地球に大きな負担をかけて作っていた、というのは、なかなか悲しい。

自分は、自分や家族の健康を維持しようと食べものを選んでいるのに、「ただしそれは地球の健康を損いながら」と、注意書きが入ってしまうのは避けたい。自分の健康と、地球の健康は、食べものを通してつながっているのだから。

そういう意味では、彼が「地球の環境負荷を考えている」ことは、「僕の健康をも考えてくれている」とも言える。やさしい。

もちろん、まったくもって環境負荷がない、ということはあり得ない。それでも、じゃぁどこが、最もバランスのとれた、それこそ両者にとって持続可能な選択なんだろう?と、真摯に考える姿勢が見えるのは、僕にとっての「いい人」だ。

結局のところ、生活者としての僕は、おいしい野菜が好きだ。でもそのおいしさは、味がよい、ということと同時に、いい人に育てられ、いい人が届けてくれた、ということでもある。

毎日食べる野菜という存在を、料理のための「材料」や、栄養素摂取のための「物質」として捉えるのはかんたんだ。そこから、値段に見合った味や見た目、調理の手間や栄養素の密度など、わかりやすい評価を下すこともできる。

けれど、野菜を考えの中心に置き、そこに関わる地球、作る人、売る人、料理する人、食べる人などを思い浮かべれば、野菜がつないでいるものや、運んでいるものの大きさに驚く。

そして、そこにちゃんと関わる「いい人」というのは、ちょっと複雑で、つかみきれなくて、わかりにくいかもしれないけど、案外そういう謎多き存在が、とても魅力的なのだ。

[坂ノ途中の報告書 Vol.2]という冊子の中に、「わかりやすさに逃げない」という言葉があったけど、まさにその真摯さを表しているなぁと思う。(だってほら、すぐにわかりやすい結論を出す人って、ちょっと怪しいじゃない?逆に、一言で言えないことを思考している人って、ふしぎと惹かれる。)

僕が推したい会社として「坂ノ途中」を思い浮かべたのは、そんな理由だ。

(なお、はじめに書いた文章に対して、素直に「......う〜ん」と言うpinoも、僕にとってのいい人である。)

おしまい。


参考リンク(ご興味あればぜひ。)

【坂ノ途中の報告書(2021-2022)】
 どんな会社なのかの説明書。「ブレを楽しむ文化を育てる」ってミッションが好き。


【有機農業白書 Vol.0】
 有機農業の現状把握。一般ユーザーでも読めるしおもしろい。


【坂ノ途中 OnlineShop】
 お買いもの。買いたいものしかない。


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