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松山演劇界の地図を描くvol.3ー観劇記:『「この病気にならないと理解できないと思います。どうせ、他人事でございましょう」公演』ー


●2024/9/23 公開
●2024/9/26 一部追記(出典および目次の追加)

1.作品について


【みた日】
2024/8/24(土)13:00~15:30

【みたもの】
『「この病気にならないと理解できないと思います。どうせ、他人事でございましょう」公演』

【みたばしょ】
シアターねこ(愛媛県松山市緑町1丁目2番地1)

【あらすじ】
地域活動支援センターステップのメンバー、就労継続支援B型事業所 風のねこのメンバーによる、その人だけの物語。言いたかったけど言えなかったこと、人知れず地味に地道に取り組んできた創作活動、それぞれの思いや日常の一端を表現します。きっとあなたも共感するところがあるはず。
(公演チラシより引用)

【出演団体紹介】
●就労継続支援B型事業所 風のねこ●
NPO法人シアターネットワークえひめが2018年7月に精神障がいのある人の利用を対象として開設しました。体験型のライブパフォーマンスやアート活動は障がいのある方々と親和性が高いことに注目。就労支援と共に、文化芸術を通して、個々の魅力を表現する場として活動しています。
(公演チラシより引用)

●地域活動支援センターステップ●
地域活動支援センター「ステップ」は、地域で暮らす主に精神に障害をお持ちの方が、自分らしく暮らしていけるよう、ともに考え支援する場です。社会参加の場や生きがいを創り出したり、こころの障害や疾患を持つ仲間(ピア)同士の交流の場であり、居場所です。
併設施設として、一般相談支援事業所「サポート」と喫茶「ぴあ」があります。「サポート」は、こころの病気や精神障害についての相談をお受けする事業所です。あらゆる方が安心して満足できる地域生活を送れるように支援します。「ぴあ」は、どなたでも利用できる喫茶店で、ステップ利用者と職員が協同で運営しています。地域の中で、ホッと過ごせるあたたかい喫茶店を目指しています。
(公演チラシより引用)




2.雑感


世界で一番熱い夏

 朝夕がだいぶ涼しくなってきた。9月も終わろうとしている。でも、「あぁ、まだまだ夏は終わらないんだなぁ」と思える公演を見た。「世界で一番熱く光る夏 もうこのトキメキ止めないで」という歌の歌詞がぴったりとはまるような、そんな気持ちがしている。

 B型事業所「風のねこ」では、利用者同士の幻聴幻覚の聞き取りを2019年にはじめたという。それは「幻聴幻覚カード」という形で作品となり、展示され、多く人がそれを観た。2023年のこと。それだけでも十分胸が熱いのに、今度は公演までやってしまった。熱いよ、めちゃくちゃ熱い!
 この胸の高鳴りは、単なる疾患の理解とか社会貢献とか、そういうことによるものではない。「心に不調がある(と時に私たちが見なす)人」の文化表現としての素晴らしさ、もっと簡単に言ってしまえば、「公演がシンプルに良かった」という作品の質によるものだ。単純にもう一回観たいし、第2弾、第3弾とやってほしい。3,000円くらいの観劇料をとっても全然良いと思う。

 ここ数年、ずっと考えていることがある。「コミュニケーション能力がある人の生涯年収は、そうでない人に比べて〇%高くなる」とか「△△遺伝子を持つ人は、統合失調症になる確率が☆%高い」とか、そういう言説に別れを告げて、その人に固有の時間と文脈―社会との関係においてどんなことを経験し、それにはどんな意味があって、それにどう対処し、どこへ向かおうとしているのか―に出会いたい。そんなことをだ。今回の公演は、まさにそういう時間だった。だからこそ、観客はみな、前のめりになっていたのではないか。それぞれが心の不調(と私たちが呼ぶもの)をどのように捉え、考え、共に生きてきたのか。そこにはどのような生活があり、その人なりの適応の形があるのか。料理も、よもぎ蒸し器も、詩吟も、コノハナサクヤ姫様も、医療機関での出来事や普段の生活の再現も、それぞれの人生の文脈の中で理解することによって、その人に固有の文化が立ち現れてくる。某お昼番組のパロディや舞台上に地域活動支援センターを再現するという形でそれを実現した、演出の有門さんの力も大きい。


「こころに不調がある人の文化」の構築に向けて

 この、「こころに不調がある人の文化」とでも呼ぶべきものについて、アーティスト(=当事者)の方と一緒に考えなければならないことがたくさんある。

 まず、非当事者が「文化の盗用」にならない形で表現やそれを観ることに参加するには何が必要か、ということがある。マイノリティの文化は、マスターナラティブ(社会で支配的な言説)に組み込まれてしまう危険を常にはらんでいる。「こころに不調がある人の文化」に対してしばしば聞かれる、「発想や行動がユニークでおもしろい」という非当事者の評価には、“非当事者の私(たち)にとって”という意味合いが多分に含まれていないだろうか。一緒に創作活動をする際、当事者の経験を私の感動や優越感、利益のために使ってはいないだろうか?翻って、自分自身は観客として、自分のものさしだけで公演の良し悪しを評価してはいないだろうか?非当事者には、当事者の文化表現に侵襲的ではない形で関わるという、ある種の倫理が求められる。それが具体的にどのようなものであるかについて、私自身もはっきりとした答えを持ち合わせているわけではない。ただ、一つ言えるのは、「当事者のことを当事者抜きで決めない」という考え方がその根本になければならない、ということだ。

 次に、「共通と差異」の問題がある。彼ら当事者の文化は、どの点において非当事者の私(たち)と共通していて、どの点において異なっているのか?本公演のタイトルにあるように、”この病気にならないと”分からないことがある。それを全て分かってしまうのは乱暴な気がする。先の問題意識とも関連するが、当事者の話を少し聞いただけで分かった気になったり、勝手に解決したことにしてしまうのは、まさに「文化の盗用」と呼ぶべき事態だろう。そうした非当事者の行為が、当事者を今も苦しめ続けていることが確かな現実としてある。一方で、全てのことが違っているわけでもないだろう。「文化の役割」や「表現する権利」については、当然のことながら共通の基盤がある。美術家の飯山由貴さんの、「『精神に障害がある人』が感じている生きづらさは、『精神に障害がない人』の感じている生きづらさと、何か違うところがあるのでしょうか? 違うとすれば、それはどんなことなのでしょうか?」(※)という問いに対して、応答し得る文化表現であることが大切になってくるのではないだろうか。
※飯山由貴(2023).「すべての人のいのちと暮らしと「表現」の関わり」『シアターねこしんぶん』(109),p1

 最後に、「認識」の問題がある。つまり、非当事者が、当事者の文化表現や心の不調をどのように捉えているか(捉えるべきか)、という問題である。「心に不調がある」ことは、極端に言ってしまえば、特定の行動パターンを持つ人々にそのようなラベリングをしたに過ぎない。現に、「性同一性障害」のように、かつて「心の不調」とされたことが今はそうではなくなっている事実がある。あるいは、「発達障害」(とされる人々)の急速な増加は、その概念の広まりや産業構造の変化を一因としている側面がある。もちろん、事はそう単純ではないだろうが、こうした心の不調への認識の問題は、先の問題意識とも関連しながら、文化表現の場においては「観ること/観られること」に直結してくると考えられる。つまり、文化表現において重要な構成要素である鑑賞者は、表現の場において表現者と常に相互作用しており、そこには社会的な文脈や要請が常に潜んでいる。鑑賞者は少なくとも、そのことについて自覚的である必要があるのではないか。それは、「障害の社会モデル」や「スティグマ」と言った、「心に不調がある人」をめぐるホットトピックとも密接に関わってくるだろう。

 「心に不調がある人」の文化表現は、少なくともここ松山では、まだ始まったばかりのように思われる。と、ここまで書いて、「いや、もしかすると、ずっと昔から表現されていたのに、観ようとしていなかっただけかもしれない。あるいは、そのための場がなかったのかもしれない」とも思う。そうした反省と贖罪とを背負い、様々な意見を真摯に受け止めながら、もっと深く深く、彼らの文化について考えたいと思う。そんなふうに思わせてくれた、ひと夏の観劇を、私は生涯忘れることはないだろう。


 
 どこでもいい、何もない空間、それを指して私は裸の舞台と呼ぼう。ひとりの人間が、この何もない空間を歩いて横切る、もうひとりの人間がそれを見つめる。演劇行為が成り立つためには、これだけで足りるはずだ(※※)
※※Peter Brook(1968).『The Empty Space』 高橋康也・喜志哲雄 訳   (1971).『何もない空間』 晶文選書



3.余談

 個人的には、ラストの一連の流れ(力(リキ)さんの冷蔵庫から食べ物を盗んだ犯人の似顔絵の公開、からの有門さんの「いや、俺やないかい!!」のツッコミ)が秀逸すぎて、一番好きなのはここだけの秘密です(笑)。間もフリも完璧で、ぜひ全国の芸人さんに観て欲しいものです。

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