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しらふの村上春樹を読み解く

【しらふの村上春樹を読み解く】というコンセプトでnoteをはじめます。

本記事は、前半でコンセプトについて、後半で具体的に何を考察していくのかを紹介します。(気合を入れて書いたので長いですw)



【自己紹介】歴4年の新人ハルキストです

2020年に村上春樹にハマりまして、それから可能な限りすべて、彼が書いた文章を探し求めて読み続けてきました。

長編、短編、ショートショート、エッセイ、対談、インタビュー、スピーチ原稿、ほぼすべて目を通しています。

もちろん国会図書館より『街と、不確かな壁』(1980年)も取り寄せて読みました。使っているスピーカーも、お気に入りのランニングシューズも、秘密裏に出版されてる御夫人のインタビュー本も知っています。

世界ハルキスト・ランキングがあればTOP20に入る自信があります。かなり本気でそう思っています(笑)

私のその自信の理由には、村上春樹がエッセイやらインタビューで言っていることを正確に理解したい、という欲求を強く持って、いろいろと思索をしてきた経験があるからです。

というのも、春樹さん、一般的な感覚で言えば「冗談でしょ?」と思うようなことを、ときどき真顔で言ってます。

例えば、「小説には、うなぎが必要だ」とか「小説家は白魔法(ホワイトマジック)を使うわけです」とか。意味不明ですよね?(笑)

彼のインタビューやエッセイなんかには、この手の意味が不明瞭な発言がたくさんあります。でも、一見わけのわからない冗談を述べているようだけど、実はかなり深いことを言っているのでは?と私は思っています。というか、シレッとめちゃくちゃ重要なことを言ってるんです

なので、村上春樹の言葉を深く理解することで、「小説とは何か?」あるいは「芸術とは何か?」というようなことを深く追求していきたいのです。そういったモチベーションを持っています。

ということで、以上が簡単な自己紹介というか、所信表明ですが、ここからnoteのコンセプトである「しらふ状態」とは、いかなる状態なのか?について共有します。


【酩酊状態について】小説は酩酊状態で書くものである

話は一瞬変わりますが、小説作品の謎解きって楽しいですよね。

謎解きは、もはや小説や映画を取り囲む今日現在の娯楽体験の一部になっていますし、TwitterやYouTubeで意外な洞察を読んだりするのは楽しいです。私も好きです。

ですが、ここでは物語の内容についての謎解きは一切しません。

なぜなら、小説にメッセージはないからです。
少なくとも村上春樹が意図して設計しているメッセージは、小説の中にはありません。仮にあったとしても、それは作品の本質部分ではないのです。

とくに意図ってないんですよね。最初なにかの断片があって、それがちょっとずつ僕の中で膨らんでいって、そのうちに物語になっていきます。すごく自然に。テーマもメッセージも、そういうものはとくにありません。あるのかもしれないけど、僕には分からない。僕はただ文章を使って話を書いているだけです。

村上春樹(2015)『村上さんのところ』新潮文庫

川上:社会に起きた大きな事件や問題を、そのまま小説のテーマとして扱いたい、というような欲望はないですか?

村上:それはないですね。(省略)もしそういうものを書くとしても、フィクションの中には直接持ち込みたくない。ナマのメッセージという形では、ということだけど

川上未映子.村上春樹(2017)みみずくは黄昏に飛びたつ. 新潮社

例えば「羊男とはなにか?」といった問いに対する解釈に正解不正解はありません。あるのは「私にとっての羊男とはなにか?」という問いとそれに対する仮説だけです。

なぜか?

それは羊男は、村上春樹が意図的に作ったものではなく、無我夢中で物語を書いてたら、ひょっこり出てきたイメージだからです。

つまり、羊男は固定化された意図から解放された多義的な存在なのです。言葉では捉えることのできない世界からやって来たイメージなのです。本質的に謎な存在、あるいは自由な存在と言ってもいい。

それにも関わらず【未来永劫、確実に羊男はAである】と客観的な定義をすることは、せっかく無限の意味を持つイメージである羊男の生命を殺すことと同じです。

それゆえ、作品の謎解きとして客観的な正解を求めることは無意味です。もっと言えば、それはあなた自身から自由を奪うことになります。

やってよい解釈とは「今の私にとって、羊男はAのように感じられる(かもしれない)」という、流動的な仮説だけですね。

これであれば、あなたはあなた自身を固定せず、流動性を保ったまま考えることができます。というか、本当はわざわざ読み解かなくても、小説を読んでいるとき、私たちは流動的な存在になっているのです。

いきなり余談が過ぎましたので、話を戻します。

村上春樹本人が言っていますが、基本的に小説を書いているときは、半分覚醒しつつ半分夢を見るという特殊な精神状態になっているわけです。まさに「卑弥呼のような巫女状態」です。ドラッグなしでトリップしている「特殊な酩酊状態」とも言えるでしょう。

長編小説を書き終えた作家のほとんどの場合、頭に血が上り、脳味噌が過熱して正気を失っています。(中略)正気を失うこと自体にはとくに問題はありませんが、それでも「自分がある程度正気を失っている」ということだけは自覚しておかなくてはなりません。

職業としての小説家

その特殊な酩酊状態で、幻覚さながらに眼の前に現れるいろいろなイメージを掴まえていく。そうして小説の素=初稿ができます。

その後、度重なる推敲を通じて客観性を付与していくことで、多くの人が読んで楽しめる作品に昇華する。

したがって、最終的な完成品は、推敲プロセスを経ることで意識的なチューニングが施されたものになっていますが、あくまでも特殊な酩酊状態で呼び寄せた最初のイメージの連なり(=初稿)こそが、村上春樹の小説の重要なエッセンスとなっています。

だからこそ、作品の本質的な部分には、やはりロジックもクソもテーマもメッセージも正解も不正解もありません。どうやら小説とは、あるいは物語とは、そういうもののようです。少なくとも春樹さんの考えでは。

解釈はできるけど、必ず多義的になる。夢分析と一緒です。



【しらふ状態について】 スピーチは「しらふ」で書くものである

ですが、スピーチは違います。
スピーチにはメッセージがあるのです。

もしやるとしたら、むしろスピーチみたいなものの中でやった方がいい。実際に自分の声を発するスピーチとして、前にいる人たちに直接語りかけたいです。すっきりとステートメントということにしたい。そのほうが僕としても責任が取りやすいから。

川上未映子.村上春樹(2017)みみずくは黄昏に飛びたつ. 新潮社

ひとつだけメッセージを言わせて下さい。個人的なメッセージです。これは私が小説を書くときに、常に頭の中に留めていることです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれています。こういうことです。もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」.2009

スピーチやエッセイや対談などの発言には、村上春樹が主張したいこと、伝えたい情報、そのためのロジックがあります。

もちろん作家ですから、興味を惹く言い回しであったり、効果的なメタファーであったり、頭に入ってきやすいリズムの良い文章を使います。ですが、そこでは誤解の余地が意図的に抑え込まれています。基本的には、文意の読み取り方に正解と不正解があるのです。

会社組織の一員として、クライアントや株主に向かって行う報告会と、基本的なコミュニケーションのスタンスは一緒ですよね。

伝えたいメッセージがあり、ロジカルな構造があり、ときには意図的にロジックの省略や飛躍を含めつつも、メッセージを効果的に伝達するための工夫がある。普段の私たちがやってることと同じです。

ということで、村上春樹も、スピーチ原稿を書くのに巫女モードになっていないし、対談するときに特殊な酩酊状態にもなっていないはずです(笑)

そう、スピーチやインタビューは「しらふ」で書くものなのです。

だから、明確な情報伝達という意図を持ったスピーチやエッセイや対談など、村上春樹が「しらふの状態」で書いた文章が、正確に意味することはなんなのだろうか?を考察することには意義があります。

彼の真意は何か?ということを、なるべく正確に理解する試み、と言い換えても言いかもしれません。基本的には、正解があるのです。

前置きが長くなりましたが、やはり私はこれに興味があります。

「しらふの村上春樹の言っていること」を理解するのが最高にスリリング
なのです。


【当noteの目的】世界一深く正確に「しらふ」の村上春樹を読み解く

ということで、このnoteでは、村上春樹がしらふで書いている文章、述べている事柄について考察していきます。

対象となるのは、国内外のインタビューやスピーチでの発言、読者から受けた質問の解答、対談やエッセイなどの文章はもちろん、ご自身が手掛けた翻訳本、推薦する書籍の解説などです。

意外にも、しらふのときに書かれた文章は膨大な量があります。寡黙な作家とはいえ、1980年からキャリアをスタートさせて、2025年になろうとしている現在まで、ずっと第一線で活躍されているわけですからね。約45年、ほぼ半世紀(!)です。

そして村上春樹は、しらふのときに書いた文章でも難解なことを言います。インタビューやスピーチやエッセイで割と難しいことをさらっと言うのです。

冒頭でも少しだけ紹介しましたが、ここからさらに具体例を出していきます。


【しらふの春樹さんの発言】
具体例(1)エルサレム賞 受賞スピーチ

例えば、「壁と卵」で有名なエルサレム賞の受賞スピーチ。

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。

村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチ「壁と卵 – Of Walls and Eggs」.2009

はじめてこのスピーチ原稿を読むと、多くの人が感動します。

「ものすごいいいこと言っているな!(なんかよう分からなんけど)」と。そう、なんかよう分からんのですよね。システムって何ぞや?と。

村上春樹は文章力があるから、我々読者がモヤモヤっと感じてしまう前に、脳内の関所をひょいっと飛び越えて、我々の頭の中の目的地にダイレクトにメッセージを届けることができるのです。

でも、冷静になると「ん?システムって結局なんやねん?」となる。そうですよね?

一体「システム」って何なんでしょう?

2020年代の日本で生きる私たちが感じる漠然とした生きづらさ、これは「魂の尊厳がシステムに絡め取られ」ているということなのでしょうか?

これは春樹さんの酩酊状態の発言ではありません。エルサレムで、国賓級の重鎮たちを前にスピーチをしたときの「しらふ状態」の発言です。なので真意があるはずです。

つまり、努力すれば我々もしっかりと村上さんの意味するところを理解できるはずです。

気になりますよね?


【しらふの春樹さんの発言】
具体例(2)読者の質問への解答

2つ目の例は、読者の質問に対して村上さんが答えているものです。

質問:
何かで、村上春樹を好きな女はみんな病んでいる、というようなことを言ってる人がいて、たまに思い出しては引っかかります。私も、読み始めた当時はたしかに病んでいて、村上さんの本を読んで治ってきました。また、村上さんがおすすめされていた古典なども読んで、面白さを知りました。私にとって村上さんは、心の先生のような方です。村上さんご自身は、ご自分の読者の女性たちのイメージってありますか?

解答:
これはあくまで僕の個人的な意見ですが、人は多かれ少なかれみんな病んでいます。意識を抱え、ニ本足で立って生きるという作業自体が、基本的に病んでいるのです。それに自覚的な人と、あまり自覚的でない人がいるだけです。僕の読者だけが(それも女性だけが)病んでいるわけではありません。僕の読者に自覚的な人が多い、ということは言えるかもしれませんが。

村上春樹(2015)『村上さんのところ』新潮文庫


1.あなたは意識がありますか?(yes/no)
2.あなたは二足歩行ですか?(yes/no)
3.あなたは生きていますか?(yes/no)

すべてにyesと答えたあなた。
村上春樹の個人的な意見によれば、あなたは病んでいます。

さて、どういうことなのでしょうか?
私たちは、みな病んでいる…?

鬱病のことでしょうか?
ブラック企業、過労死、パワハラ、離婚問題、不倫問題、セックスレス、物価上昇、新たな課税、燃え尽き症候群、うんぬんうんぬん…。

現代を生きる我々の悩みはつきません。

でも、厳密には鬱病のことではなさそうです。だって、仮にそうだとしたら「自覚があるかないかの違いだけで、実はみんな鬱病患者である」ということになってしまう。流石にそんなはずはありません。

改めて文章を読むと「意識を抱えて生きるという作業自体=病んでる」と主張されてます。ということは「意識がある=病んでる」ということですね。

つまり「意識とは何か?」「意識の副作用とは何か?」を探求すれば、「人間はみな病んでいる」という文章の正確な意味について、我々なりの仮説が持てるはずです。

やはり、これも特殊な酩酊状態で書かれた文章ではないので、多義的な解釈の余地はなく、伝えようとしている真意があるはずです。

気になりますよね?


【しらふの春樹さんの発言】
具体例(3)河合隼雄先生に関する文章

「物語」という言葉は近年よく口にされるようになりました。しかし僕が「物語」という言葉を使うとき、僕がそこで意味することを、本当に言わんとするところを、そのまま正確なかたちで、総体として受け止めてくれた人は、河合先生以外にいなかった。そういう気がします。

村上春樹(2013)魂のいちばん深いところ ー河合隼雄先生の思い出ー

まさかの発言ですね。

世界中の作家や芸術家と交流がある村上春樹が、「物語」という言葉を使うときに、「本当に言わんとするところを、そのまま正確なかたちで、総体として受け止めてくれた人」は、河合隼雄先生しかいなかったそうです。

河合隼雄先生 = 村上春樹のたった一人の正統な理解者ですよ。

であるならば「村上春樹の考える物語とは何か?」について、我々が考えようとするならば、村上春樹の発言だけではなく、河合隼雄先生の大量の著書で語られている「物語とは?」についても耳を傾けなければいけません。

さて、心理療法家の河合先生のみが正確に総体として理解できた、村上春樹の考える「物語」という言葉の意味は、なんなのでしょうか?

河合先生は心理療法家ですから、精神的な問題に関する治療のスペシャリストです。そして、物語には治癒力があるとも言われますよね。

村上春樹も「物語を書くことは自己治癒」だとか「仮定法過去完了的な、可能性としてのもう一人の自分になりきることで、現在の自分自身の中のゆがみを直す」みたいな、訳の分からないことを、しらふで語っていることがあります。

村上:
もし治癒的なものがそこに(小説を書くことに)あるとしたら、それはこういうことじゃないかな。

つまり、さっき仮説としての「僕」が、僕の小説の主人公であるかもしれないと言ったでしょう。本物の僕じゃなくて、こうあったかもしれない、仮の姿としての「僕」。人間はいろんな選択肢を選んできて、こうして今の自分になっているわけだけれども、もしある時点で違う選択肢を選んでいれば、今のような自分にはなっていないかもしれないわけですよね。

そういった「もう一人の別の自分」になれる機会って、現実世界にはありません。でも小説の中では、もしそういう人になりたいと思えば、なれるわけです。今ある自分ではない誰かに、オルタナティブ・セルフに僕自身がなれる。そういうのは一種の治癒行為にあたるんじゃないかとは思うけど。

川上:その場合、何を癒やしていることになると思う?

村上:それはこっちの道を選んできたことによって自分の中に生じた変化、ひずみみたいなものをアジャストすることです。もう一つの道を選んだ僕の身体の中に入ることによって。つまり同化と異化を交換するっていうか。

川上未映子.村上春樹(2017)みみずくは黄昏に飛びたつ. 新潮社

この難解な文章は、思いっきり、しらふで語られてるわけです。

つまり、この書くという行為にまつわる治癒的な効能の説明には、村上春樹の真意があり、私たちが読解の努力をすれば、「もう一人の自分になって、ひずみを直すことがどういうことなのか?」を理解できるはずなのです。

創作行為と治癒の関係、気になりますよね?


【将来像】このnoteで考察していくトピック

ということで、村上春樹の様々なインタビューやスピーチでの発言を見てきました。

どれも非常に面白く、かつ訳のわからない発言ばかりですね。これら全てしらふで語られていることです。酩酊状態にはありません。つまり、私たちも正確に理解できるはずです。

このnoteで考察をするのは、例えば以下のような問いです。

Q. 「システム」とは?どのように個人の魂が貶められるのか?
Q. 「意識を持つ人間の病まい」とは何か?
Q. 「河合先生と村上春樹が"臨床的に共有"した物語」とは?
Q. 「物語」は、何を、どのように治癒するのか?
Q.   そもそも「巫女モード」って何?どうすればなれるの?

もちろんこの初回記事では、問題提起とコンセプトの提示が中心ですので、今後はここで紹介したものだけでなく、ありとあらゆるしらふ状態の村上春樹さんの発言で、意味が不明瞭なもの、私が個人的に気になるものを、徹底的に考察してきます。

例えばですが、以下のようなQに対する解答を考えていきます。

Q. 小説の役割=「テキストの有効性」とは何か?
Q. 小説の生命線=「ブラックボックス」とは何か?
Q.  なぜ小説家は「フィクション=嘘」を利用するのか?
Q.  言語なのに非言語的な「メタファー」の効力とは?
Q.  小説家と心理療法家とカルトリーダーの違いは?
Q.  21世紀の小説の役割=「魂のソフトランディング」とは?
Q.  小説を書くことで「ゆがみを直す」とは何か?
Q. 「物語を書くこと」と「近代的自我」の関係性とは?
Q.  なぜ無意識世界に行くときに「文体」が必要なのか?
Q.  「闇祓い」とは何か?なぜ必要なのか?
Q.  なぜ小説家は翻訳をするのか?翻訳と創作の関係
Q. 「牡蠣フライ理論」って一体なんのこと?
Q.  ってか、「うなぎ」ってなんやねん?
Q. 白魔法を使う小説家、黒魔法を使うのは誰?
etc…..
(ゆくゆくは、いろいろQを募集したいと思います)


私は過去4年間の個人的な探求で、既にこうした「しらふ状態」の春樹さんが述べている難解な文章に対する、大量の仮説を構築しています。

ただ一方で、まだ腑に落ちていない発言もあります。例えば、こちらの発言です。

言語とは、誰が読んでも論理的でコミュニケート可能な「客観的言語」と、言語で説明のつかない「私的言語」とによって成立していると、ウィトゲンシュタインが定義している。私的言語の領域に両足をつけ、そこからメッセージを取り出し、物語にしていくのが小説家だと考えてきた。でもある時、私的言語を客観的言語とうまく交流させることで、小説の言葉はより強い力を持ち、物語は立体的になると気がついた。

村上春樹. 読売新聞インタビュー「1Q84への30年」(2009)

難解です。ウィトゲンシュタインを読まないと分からないと思って、解説本をいくつか読みました。分かりませんでした(泣)

いまのところ私的言語=詩的言語と、客観的言語=散文言語と読み替えてもいいのかな、とは思っています。でも、自分の中で腑に落ちていません。

誰かこの文章の意味するところが分かりましたら、ぜひ教えて下さい。物語を立体的にする方法が知りたいのです。


【芸術論】しらふの村上春樹の発言は「宝の山」である

ということで「しらふの村上春樹を読み解く」というnoteを書いていきますが、私の興味の本丸は「芸術とは何か?創作とは何か?」です。

芸術に対する興味って追求しにくいというか、なんというか、週末に陶芸教室に通ったり、森美術館なのか根津美術館なのかアーティゾン美術館なのかに足を運んだりしても、なかなか自分の中で発展しないんですよね。

理想的には自分が創作活動を実践しながら、師匠につくか、本なりを読んで過去の偉人も思想や思考を学び、自分流に昇華させることが王道なはずです。

でも、みんなが可処分時間の全てを芸術活動に捧げているわけではありません。例えば、仕事で昼間は「インドネシア市場における小型自動車の販売戦略」みたいなことを考えながら、家族が寝静まった夜22時以降に「個人的な芸術的探求」を進めるのは結構難しいですよね。もちろん、できないことはないですが。

また探求の時間を取れたとしても、師匠や偉人は大概言ってることが抽象的なんです。長嶋茂雄さんは「ヒュイッと打つんだよ」と言い、岡本太郎は「芸術は爆発だ!」と言います。

この理由は、おそらく達人と呼ばれるのは、言語ではなく、非言語レベルで重要なポイントを掴んでいる人たちだからです。言語化能力が低いのではなくて、単純に言語より上のレベルである体感世界で動いてるんですね。

そんなアクセスしにくい非言語の体感世界を垣間見て、自分なりの芸術論を考えていくのにも、私は村上春樹が絶好の入口だと思っています。

なぜなら、彼は作家なので、非言語的な体感を、リズムの良い文章やらメタファーやらの非凡な言語能力を駆使して、かなり正確に私たちに伝えることができるからです。

そうです、しらふ状態の春樹さんの発言は宝の山なのです。


【終わりに】村上春樹のファースト・キャリアは「ビジネスマン」である

よくよく考えてみて下さい。

村上春樹は「本来の自分が選ばなかった、もう一つの別の道を選んだ自分の身体の中に仮想的に入ることによって、自分の中に生じたひずみを調整してる」と言っているんですよ?

「そんな馬鹿な」って思いますよね?
知らない人が言い出したら、頭おかしいんじゃないかな?と思います。

でも、これインタビューでの真面目な受け答えで冗談じゃないんです。SF映画の主人公が言ってることでもなければ、新大久保にいる怪しい占い師のセリフでもないです。一人の日本人が本気で言ってることなのです。

しかも、この人は、世界的に圧倒的な成果を出しており、この現実世界で客観的に評価されている人物です。(もちろん評価されているからといって、その人の意見が正しいと限らないのは重々承知ですが)

さらには驚愕の事実ですが、この人物のファーストキャリアは「ジャズ喫茶の経営をしていたビジネスマン」なのです。

春樹さん本人も、自分は芸術家タイプではない、と言っています。ってことは芸術とは無縁の世界を生きている人でも、きっと適切な仮説の構築と自分にあった実行スタイルさえできれば、巫女モードに入るのも夢ではないはず・・・

どうでしょう?
作品の謎解きではなく、しらふの村上春樹さんの発言に耳を傾けたくなったでしょうか?(笑)

ということで「しらふの村上春樹を読み解く」はじめます。

村上春樹というポップな入口を使いつつ、内容はハードコアなところまで深ぼっていく予定です。どうぞお手柔らかに、よろしくお願いします。


余談追記:直木賞作家の佐藤究さんのインタビュー

このnoteを書いてから、たまたま直木賞作家の佐藤究さんのインタビュー(2021年)を読みました。以下のように仰っています。

話をポリコレに戻すと、僕のような書き手の場合、政治的なオピニオン(意見)の発信は最優先の仕事ではないと思っています。単純に政治的ではない言語活動を選んだ身としては、オピニオンの論争ではなく、認識のゲシュタルトをめぐってフィクションを書くことが、自分の役割かなと思います。

直木賞作家・佐藤究が考える小説の役割と「知る」ことの大きな価値(2021)

「オピニオンの論争ではなく、認識のゲシュタルトをめぐってフィクションを書くことが自分の役割」と。

言葉遣いは違いますが、これは今回のnoteで取り上げた村上春樹の発言と全く同じことを言っていますね。

彼の言葉を使って整理をすると、小説作品のようなフィクションは人々の認識に影響を与えることができる一方で、それはオピニオン(意見=メッセージ、あるいはステートメント)の論争とは異なると。

フィクションとオピニオンが対立形式で提示されています。

オピニオンは、ロジックに則って議論をするものですね。裁判所で、被告人が有罪か無罪か判断するときに使うのがロジックです。だって、被告人が美女だからといって刑罰が軽くなったら不公平ですからね。法廷では外見は関係なく、事実と論理が重要になります。

一方で、物語は人の認識に影響を与える体験と仰っていますね。体験、感情、イメージの世界です。こちらの世界では、良くも悪くも登場人物の外見が思いっきり影響します(笑)物語の世界にリアリティを感じられれば、意見が論理的に筋が通っているか、というのは二の次なわけです。

この物語(フィクション、ストーリー)と意見(オピニオン、ステートメント)の違いについても、いつかしっかりとした記事として解説したいと思います。

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