おもしろがる、ということについて
演出家の鴻上尚史さんが、「笑いは構図がズレる時に起こる」みたいなことを言っていた。つまり、あることについての知性を前提にしていると。ただし、それははじめて出会うズレであると。
わたしは真空ジェシカのネタが大好きで、彼らのネタはまさにその笑い。知っていれば笑える。ついでに、わからないボケが出てきたら、それを面白がりたくて、知りたくなる。
さらに脱線させてもらうと、ボケには2パターンあるのでは?1つは低俗なボケ。知性がないこと、つまりズレたほうの構図を知らない人にウケる。もうひとつは高尚なボケとでもしておくか。ズレたほうの構図がまったく新しいものである。
そうなってくると、かなしいかな、むしろ知性が高ければ高いほど"笑える"場面って少なくなるということか?
そして本題はこちら。(お笑いについては具体例の一つになると思うが、)「面白い」という状況、「面白がる」ということが、これに関係するのではないかと思う。
つまり、あることがらについて、自分の構図をもっているかどうかということ。異なる考え方や、他分野との出会いが面白いのは、構図があるからこそ起こりうるのではないか?
そして、このズレを面白がったら、ズレを頼りに自分の構図は相対化されていく。ズレに出会えば出会うほど相対化されて、自分の構図のあり方が鮮明になる。さらに、ズレに気づき、面白がることができるようになる。このポジティブループ。
出会ったおたがいの構図を磨き上げつつ、この気づいたズレの面白さをどのように昇華するのかというところが肝に思えるし、そこがコラボレーションの意味であり、イノベーションとなるところではないか?
これが、垣根を低くし、境界をなくすことで起こることなのだろう。なぜ、これに踏み切れないのかというと、思うに、構図が重なり合わないと決めつけているから。そもそも、平易な言葉だが、はじめから分かれて生まれてきたものなんてないはず。
ここまでの出会いは人と人を意味していたが、これを内省的に可能にするのが歴史である。とくに、思考の枠組みの認識への挑戦ともいえる、哲学であると思う。
これからも自分自身は「面白がる」ことができるように磨いておきたい。
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