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21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(第16の間と第17の間)

作者 Maomono
翻訳 sekiisekii

第16の間 絆を解く

昨夜、原稿を作っている時、思いがけなくも本シリーズの連載をやめたくなる衝動があらわれてきた。なぜなら、木島と城戸の関係の破綻がつらいだけではなく、その内容が複雑すぎて書きにくいから。このシーンは技術的な視覚表現と役者の演技と共に非常によくできていて、よって、視聴者のプライベートの感情を引き出し、理性的な分析がほとんど不可能だ。

詳しい分析に入る前、現代の感情生活についてすこし述べたい。FanbookのAfter Talkで、蒲生田役の大石吾郎は「インディゴの気分」のファンにメッセージを寄せる。

彼氏いない、彼女いない若者が多いんだってね。なんか妙だな。ま、便利ツールも豊富だし、お腹が空いたらいつでもなんでも手に入るから不自由もなく淋しくもないという事なのかな?

人は誰かと寄り添い合って生きる。異性同性に関わらず人生を歩む相手に出逢えるといいね。煩わしいとかウザイとか言ってちゃダメダメ!「インディゴの気分」で成長しよう。

大石のこの話はおそらく、「ポルノグラファー」と「インディゴの気分」が視聴者に伝えたいポイントであろう。今日、人々はこういうジレンマに置かれている。他人をいままでないほど嫌い、愛は快楽をもたらさなければ、何の値もしなく、捨てたほうがマシだ。一方、人々はいままでほどない他人と深く結びづくのを望み、それだけがこの素早く変化している社会に生きる恐怖と焦りを消し、よって、浮雲のような居場所のない人々の心を落ち着かせる。ジレンマの中、人々は夢を諦め、一人で食べて一人で生活し、すべての感情を小さいスクリーンに投影して、他人の幸せを傍観している。つらい現実から逃げようとする視聴者を慰めるため、恋愛をテーマとする視覚テキストはロマンチックなものでなければならない。その世界の中で、孤独は必ず救われ、恋人が無条件に忠実一途で、疎通はほとんど脳波に頼り、誤解は絶対傷つけにならなく、恋人がいて結ばれ、すべての現実的な問題はすべて本当の愛の実現を妨げることができ(ありえ)ない。人々が感情の苦痛を受容する能力を失っているため、これらの要件を満たさない視覚テキストを見るのは、苦痛のようになる。これが、人々が癒しやハッピーエンド(幸せな結末)に夢中する理由である。私も例外ではない。初めて鑑賞する時、「インディゴの気分」を挑戦としてみている。現実はもう十分につらいのに、何でこんな辛い話を見なければならないか。極めて辛くて、恋愛の一方がなくなり、号泣させてすっきりするほど残酷な物語でもないのに。それに対して、「インディゴの気分」は、現実と同様な不可解であることを提示し、視聴者が憂うつを持って物語世界に入り、より深い憂うつになって自分の生活に戻ってくる。いわゆる鈍い痛みだ。しかし、すべての成長の痛みは、ほとんどこのような鈍い痛みで、致命的な痛みではなく、迅速に除去することもできない。それとの付き合い方を学んだときには、いくつかの経験と知恵が得られる。

第五話の会議室での言い合いに戻ろう。言い合いのきっかけは城戸の転職を何気なく触れた社長だが、視聴者はその日はついに来ると分かっている。

会議室の外で青ざめた顔で目を剝く木島を見ていた城戸は、コートを持って出ていこうとする木島を止め、事実を教えたかったがタイミングが悪いと下手に弁解する。ただ、タイミングがよければ、木島は楽になるか。それはないであろう。木島を傷つけることは、城戸がその人生の選択をした時点に決まっている。第四話に、木島の優しさで城戸は軌道変換のことをしばらく忘れ、自分の本心に忠実になって、転職を意図的に先延ばしにし、この曖昧で甘い人生の岐路でより長く行きたかったが、岐路を遠く歩けば歩くほど、同行する人を深く傷つける。木島は城戸の弁解にきれる。そこから、役者の集中力が試される3分半も続く長回しが続く。竹財のこのシーンでの演技は完璧ともいえる。3分間もある独り言は、少しの弛みもなく、一気に完成して、クロスアップされた顔にすべての感情をみごとに表現し、しかも立ち位置を見事に移動する。(このような素晴らしい俳優は助演しか担当できないのはなぜだろう。)

この独白の3分間、木島は城戸との絆をほどく。彼は自ら城戸と新しくできた恋人関係から、気の合う仕事仲間、友人に至るまでの関係を解消し、最終的にはお互いを二つの世界に分けていく。関係の解消は人間の傷を取り除く本能だが、その過程に、彼自身に深刻な二次被害をもたらす。中国語では、八百人の兵士で敵を千人殺すという、割に合わないことを例えることわざがあるが、木島はまさに、一万人の兵士で敵を三千人殺すほどなかなか割に合わない行動をする。二人の関係に沿ってこの独白を三段階的に分解していこう。

第一段階は恋人関係(親密関係)を解消する。木島を怒らせた2つの出来事の1つ目は、城戸との恋人関係をめぐるもので、君が黙ってたってことだ、彼女とよりを戻したってと言って、木島はカメラに向かって13秒間沈黙した。その間の表情は、複雑で精妙な感情の変化を表現している。最初は怒りを抑えた冷たさで、眉をひそめて裏切られた苦々しさを味わう。それから、彼は振り返り、いつだよと城戸に近づき、問いかける。時期への執着は、木島が城戸をまだ愛しており、城戸のために言い訳を探す衝動を持っていることを示す。時期が重なっていなければ、相手は裏切るとは言えなく、二人はそのことを水に流す可能性がないではない。しかし、城戸は何も言わない。木島はこれ以上自己欺瞞をしてはいけないと悟る。過去にある城戸の愛は瞬間微塵になり、その愛が城戸の本心だとはもう信じられない。自己嫌悪になった木島は額に手を当て、それが城戸の本心からの愛でなければ、最初から最後までの一切は自分のただの思い込みだと気づく。はプライド高い高潔な性質の持ち主である木島のプライドは瞬間、粉々に引き裂かれる。プライドの面からすれば、恋愛はリスクの高い行為だ。相手の態度が自己価値の判断を強く左右する。恋愛関係では、相手に信用することは相手に包丁を渡すと同様で、自分を傷つける権利を相手に与えるのだ。

城戸が木島の手を握ろうとすると、木島は激しく反応して、その手を振りはらう。それまではどれだけ身体を触ること望んでいたが、いまはそれ以上嫌うことがない。なぜなら、城戸の彼の身体への求めが愛によるものであることを、もはや確認できなくなるからだ。それはただの動物的な行為にすぎない。木島は吐き気を覚えそうになった。

言葉で弁解してみても、身ぶり手ぶりでなだめてみても、木島を挽回するタイミングを失っていることを悟った城戸は、投げやって木島の怒りを最後まで聞くことにする。「もう1つは何だよ」と。そこから、木島は第二段階の関係の解消に入る。

第二段階は、仕事仲間/気の合う友人関係を解消する。第一段階の絆をほどいた木島は、キャラクターの立場上、この段階の関係により多くの理性を保つことができ、彼の論述がはっきりしてくる。城戸が自分を官能小説というジャンルを案内したのに、自分はそこから抜け出そうとしたことや十年以上従事してきた仕事を不名誉なことにしたこと、結婚のために木島と蒲生田を同時に利用したことを非難する。城戸に失望したのは、城戸が当初の目的を隠していたからだけではなく、彼が思っていたような理想主義的な編集者としての情熱を持っているわけでもなく、自分の将来を計算していた利己主義者にすぎないからだ。木島は城戸に歩み寄り、最低だなお前と冷ややかに言う。彼の軽蔑あふれる目には、悲しみがいっぱいある。城戸はかつて灯台のように新たな目標を与えてくれたが、いまからすれば、ただ自分の見間違えで、気持ちが冷める。次に、木島は城戸と徹底的に一線を画す。

第三段階で、木島はお互いを二つの世界に分ける。木島はそう思う。なぜ見過ごしてしまったのか、あなたがどんな人か特に知っているはずなのに、と。その際、木島の言葉は、一語一語殺傷力を増し、まるで復讐のように迫ってくる。城戸のことを、「他人の顔色ばっかり伺って、自分の好きな事なんて出来やしない、信念も貫けない、いやむしろ信念なんか無い、ぺらっぺらな人間なんだよ」と歯を食いしばって城戸を批判する。彼の言葉の一つ一つが、刃のように城戸の心に突き刺さり、彼の劣等感や弱さ、無力感につく。城戸は耐えられなく、木島を見上げ、木島の目を見つめるが、木島は城戸の傷ついたプライドを察知しても、感情の堰を切ったかのように、一瞬の強烈な復讐欲を止めることができず、「なんだ、悔しいのか、信念は無いのに プライドは一人前にあるんだ、なぁ」と軽蔑に言う。ここまで、木島はすべての関係を解消し、自分の手で城戸との間一線を画す。絆を解いたら、これ以上苦痛はしないと思ったら、絆はすでに二人の接点になっている。それを断ち切ると、必ず自分を傷つける。

「インディゴの気分」の12分間の公式インタビューの中で、俳優の竹財は俳優の吉田が会議室で自分に本音を打ち明けるシーンが一番印象に残っていると語る。吉田も、こんなに重いことを言われたことはないと言う。彼は台本に書かれていない涙まで流した。城戸の立場からして、人生で経験したことのないような強烈な感情を経験したのだろう。愛する者に、自分が最も直面したくない真実をことごとく見透かされ、恥ずかしさと憤りの極みに達した城戸は、木島が先程ほのめかしたことを言い出す。つまり、二人はもともと別世界の人間であり、二人の違いを決めているのは信念たるものではなく、才能なのだ。それについて、木島は考えたことがない。城戸が木島に飛びかかり、その勢いで木島を会議室の壁に押し付ける。誰もが木島のように、世間のルールを無視して身勝手に生きられるわけではないと城戸は指摘する。それを支えているのは木島の才能だ、と彼は心の中にこっそりという。世間はよく大目で天才を見る。木島は、自分が人よりも多くの選択肢を与えてくれたことが神の恵みだったとは考えたことがなかろう。一部の視聴者は、それは城戸の強さが足りないからというかもしれないが、ある角度からいえば、この強さでさえ、生まれつきの才能の一種だ。人々は他人を自分と同様だとよく思い込むが、不幸なことに、人は生まれつきそれぞれ異なり、それによって選べられる選択肢の数も相当違う。城戸は自分が木島のような才能を持たなく、そのため、木島のような作家になることができないことを知り、木島に、その非凡な才能、火のように熱い心と自由な魂に憧れる。そう思うと、城戸は背中を丸め、愛する人の胸に頭を埋め、ほとんど巡礼のような敬虔な気持ちで、しだいに落ち着いくる。木島理生の前に、城戸士郎は卑しい普通な人間だ。木島の存在そのものは城戸に、見えても届かない世界があることを知らせる。木島は自分の作家としての夢から目覚めさせ、自分は能力が限られた人間であることを早くも教えてくれる。このような人が自分にくれた愛を、城戸は自信をもって把握することができない。木島と一緒にいるすべての瞬間は、城戸は自分の資質の凡庸さを知らされ、愛される自信がない。すると、城戸は木島を最も傷つけたセリフをゆっくりと口にする。「お前がいると俺は、自分が嫌になる」。

木島は思ったことがない。城戸が自分と一緒にいるすべての瞬間を楽しんでおり、二人は肩を並ぶ恋人で創作の仲間で、全く留保のない愛は城戸の負担になるのではなく、全く留保のない愛を引き換えられると信じていた。城戸の言葉を聞いてようやくわかるようになった木島は、城戸から離れる以外に、彼を苦しみから救う方法はないと悟る。木島は懐に抱かれた城戸を慈しむように見て、たとえいくら愛していたとしても、未練があったとしても、思い切って突き放すしかない。彼は自分をもっと情けなく見せようと努め、卑屈なままの城戸を冷ややかに見拠え、「気が合うなぁ。僕もお前みたいな人間、ヘドが出る」と言い、力を入れて城戸をぐっと押す。それによって城戸が平凡な生活に戻れると願うようだ。短い交わりの後、二人の人生は再び平行線になる。

人は親密関係で、あつれきや傷つきを回避しがちだが、そのあつれきによって人は本当の自我をさらけ出すことができる。そして、お互いが本当の自分を見せて初めて、より深く、確実な結びつきが生まれるのだ。


第17の間 城戸の覚悟


第五話に入ると、私は何度も諦めると考えている。このシリーズの執筆を登山に例えると、今の段階は頂上に段々近づき、酸素が薄くなるから、ますます足を持ち上げるのが難しくなり、たびたび諦めたくなる。第五話は言い合いから始まって、そして二人は別れて冷静になる。この微妙な時期、城戸と木島はそれぞれ何を考えたか。今回は城戸が蒲生田の病室を出てから、転職をあきらめて屋上で木島の名前を無言に叫ぶまでの、人生の選択を修正していく過程を取り上げる。とりあえず、この過程を城戸の覚悟と呼ぼう。

円盤の「未公開映像集」では、木島が蒲生田の車椅子を押して川辺を歩き、蒲生田が木島に人との縁は大事にしたほうがいいぜと勧めるシーンが収録されている。監督の三木は容量を超えたため削除したと説明するが、やはり城戸の覚悟と比べて、こちらのほうがそれほど重要ではない。というのは、木島の反省よりも城戸の覚悟が二人の関係を左右する。

ある雨の夜、城戸は再び入院した蒲生田を訪ねる。ビジネス訪問で、人情的でもある。ただ、城戸が病室に着くたびに、木島はそこにいない。城戸を意図的に回避していると考えられる(DVDのパンフレットには、木島が意図的に回避していたことを示唆するスチール写真がある)。会議室での言い合いの後、二人は会話を交わす機会はないと思われる。城戸が病室に入って蒲生田を呼び覚まし、原稿の話をした後、蒲生田は城戸に転職のことを確認し、彼の決断を理解した上で、城戸に今後も木島の世話をしてくれないかと頼む。蒲生田は三つの理由を挙げる。第一に、城戸は木島と学生時代からの付き合いだということだ。そう、彼が使っている言葉は「付き合い」だ。視聴者は城戸と木島が恋愛関係であることを知っていても、蒲生田は知っているはずがなく、彼にしてみれば、これほど深い感情を持つ二人は少なくとも十年の付き合い(実際には二カ月同居しただけ)があるから、決して縁を切るべきではない。第二に、木島は才能があるが、官能小説というのは質よりも数がものをいうジャンルの文学で、気楽に創作しなければつぶれられてしまう可能性がある、そこを城戸に把握してもらいたい。第三に、蒲生田は自分がこの世にはもう未練がない、さっぱりこの世をさることができるはずだが、人生の最後の数ヶ月の間に、城戸の仲立ちで木島と父のような絆ができた。木島のことがあまりにも心配で、城戸に彼の軽率な提案の責任を取ってもらい、自分を安心させたい。義理に仕事に絆、蒲生田は次々と城戸に責任をかけ、木島に対しての責任を取れと要求する。城戸の転職に理解を示したばかりの蒲生田だったが、この時点では、すべての親がわが子にひいきするように、木島のことしか考えていない。城戸が転職するとしたら、そんな重要な任務を完成するわけがない。

そこで、第17の間の冒頭のシーンが出る。病室から出てきた城戸は最期を迎えた患者とのつき合いの苦しみを感じる。毎日懸命に看病しているからして、木島の精神的な負担は想像・推測できる。木島の蒲生田への献身は、城戸にも責任感を持たせる。なんと言っても、出版権を得るために弟子入りの案を考え出し、二人の作家を結びついた張本人だ。だから蒲生田が木島を自分に託した以上、何もしないわけにはいかない。そう思うと、城戸はこぶしを握り、転職を断念することにする。

それから、社内の喫煙室で行われた1分半の推近镜头を通して、城氏と社長とのやりとりの一部始終を見せてくれる。そのときのを伸城戸は背筋ばし、桃水社に残りたいと社長に訴えた。教伝社に挨拶をした社長が困ると知らないわけではないが、今回は社長の顔色を伺って行動するのではなくて、俺、やっぱりうちで作ってるものが好きなんですといい、社長に深いお辞儀をする。これは社長を動かすための会社愛アピールか。城戸は自分の業界をどう思っているか。城戸のこの仕事への姿勢を整理してみよう。第一話で木島のそういうの好きなのという質問に、彼はちげえよ、どこも受かんねえから、バイトしてたとこに就職しただけと否定する。木島が官能小説は道具だと言うと、読者のおっさんをいかせてなんぼってところもあるけどと怒りを抑えた。第二話木島と初稿の話をした時、(濡れ場は)歌ならサビだぞ、その先生は特別だ、大御所だからなと言っていた。彼女の両親と会う場面を振り返ると、俺だってこの仕事が嫌いじゃない、それなりにプライドもある……侮られたり、色眼鏡で見られたまで、やりたい仕事なのかというとわからないと独り言をする。また、第三話の打ち合わせで木島に本名で本を出すという社長の提案に彼を守ろうとする。これらのシーンからみれば、官能小説は城戸にとっては隠れ家であり、一部の読者にとって必要なもので、彼が経験を積んできた文字の分野であり、世間には軽蔑されるが、自分は嫌いではない仕事であることがわかる。何より、官能小説はまだ文学だが、給料の高い教伝社は実用書を作る。好きな人を巻き込んでいくようになった今、城戸にとって官能小説はより深い意味を持つようになるのに違いない。それは木島と共有している文学の世界で、好きにならない理由はまったくない。

社長もその丁寧さに心を打たれ、心のしこりが解消される。第三話で、社長は城戸を冷ややかに見て、やはり官能小説は人にとって求めるに値しないものだと嘆いた。城戸がこの事業を認めることは平和の証だと感心する。官能小説は求められるから存在するし、必要とされることが価値がある。社長は、あそこに入りたいやつはたくさんいるだろうなあと城戸のための交渉を引き受けてくれる。人は世間体を求めるが、今の城戸は自分を必要としてくれる場所を選び、そこに彼にとっての価値がある。今度こそ、城戸は人の顔色をうかがうことなく、心に従うようになる。
夕方の屋上で、城戸はタバコに火をつける。転職を諦めたら結婚はできなくなり、彼の計画した人生の軌道が変わることをもちろんはっきり知っている。これは木島のためにできる最善のことで、「これでよかったんだ」。城戸はこの職場を守り、蒲生田に頼まれたことをやりとげる。カメラが城戸の確固たる態度の示す顔をクローズアップする。彼は声を出さずにキジマという名前を口にする。これが彼を縛る呪文になる。このシーンは畳の上で倒れた木島が城戸の名前を呼ぶシーンと呼応する。木島の呼びかけ=強烈で熱い愛に比べて、城戸の無言の呼びかけは、現実的抑圧された反発を代表する。だが、これこそ人々の愛し方である。それは決して完璧ではなく、常に妥協し、間違いを満たすが、ベストを尽している

では、次の間で。


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