21日間の21の間——「インディゴの気分」視覚テキスト分析(第19の間と番外編)
作者 Maomono
翻訳 sekiisekii
第19の間 遺影の前の告白
「間シリーズ」が山に例えれば、第19の間の「遺影の前の告白」は間違いなく山の頂上である。前書きに、間が日本の中国水墨画研究で余白の翻訳語に使われていると書いた。今度の余白は解釈の不確定性を直接にもたらすとも言える。このあたりの解釈は非常に多様化し、それぞれの解釈の間には調和のとれない矛盾が生じる。合理的な説明が見つけられないわけではないが、原作とドラマ版の人物設定の間に差があり、そこから生じた矛盾は調和できないのだ。逆に、それこそ「インディゴの気分」の面白さかもしれない。みなさんのご感想をお待ちします。
この間は1分59秒から8分43秒までを取り上げる。そこで、視聴者の疑問とは大体こんな感じだ。木島はなぜ城戸の告白を割り込むか。なぜ城戸はそれを再び言わないか。また、城戸はいったい何を言おうとするかということだ。いままでの議論を見て、読みは大きく3つに分けられる。
1、木島は城戸に対してもう望みを抱えないから、一発で二人の関係を終えるつもりだから。
2、木島はすでに魔性の官能小説家になり、意図的に二人の関係を単なる肉体関係に導き、城戸を欲望の書くための道具として使うから。
3、木島は再び傷つかれるのを恐れて、恋を丸めに収束させる可能性を用意し、それに恋の収束を城戸に決めてもらう。
以上の3つの解釈は、個人的にはあまり賛成できない。城戸と木島の間に愛がなくなったとか、木島が創作のことをまったく考えていなかったとか、私には納得できない。欲望と創作は「インディゴの気分」の中で分けられない2つの部分で、「遺影の前の告白」部分も例外ではない。城戸と木島の関係は木島の創作を促進し、逆に木島の創作も彼に二人の関係に対して更に深い理解を生じさせ、それによって二人の関係がより緊密になるのである。
技術面からみて、この部分は「インディゴの気分」の美学のクライマックスだ。夕方の哀愁を誘う暖かい黄色のトーンであれ、古風で懐かしい日本家屋であれ、素朴な祭壇の装飾であれ、屋外に咲く春の桜や城戸と木島二人の葬式の服装であれ、製作チームは工夫を極める。それらをすべてうまく組み合わせてくれるのが撮影の構図だ。長回しの話、演出の話で構図に触れたことがあり、前回でも三木監督が背中の構図を使って、観客の想像を働かせると説明した。今回では、三木監督がシンメトリ構図を三回、ディスシンメトリ構図を二回採用し、城戸と木島の関係性を表現する。ここからは、これを手がかりにして分析していく。
最初の完全な対称の構図は城戸が「玉稿拝受」と言ってから。80秒という定番の長回しだが、演出が見事で、対面して座っている城戸と木島の二人だけでなく、後ろに飾っている蒲生田のお供えや、両脇の花輪(城戸と木島の背中に翼のような形をしているもの)も、シンメトリー構図になっている。この構図は、視聴者の心に安らぎや心地よさをもたらす。ちなみに、人気監督の中では、『グランド・ブダペスト・ホテル』監督であるウェス・アンダーソンがシンメトリー構図で有名だ。ほかに、三木は城戸と木島の二人が相次ぎ蒲生田の遺影に向かうという、空間的にシンメトリーなシーンを、時系列にも配置している。
このとき対座している城戸と木島は、担当編集者と担当作家の弟子という対等な仕事の関係だ。城戸が丁寧に原稿をいただくと、蒲生田が最後まで原稿を書き続けたと、敬意を込めて先生の遺影を見た。しかし、木島は、先生は八割しか完成しておらず、残りは自分が代筆だを城戸に告げ、まるで原稿を仕上げて担当編集者に渡したよと告知するように蒲生田の遺影を見る。また、代筆の裏は公表しないようにと城戸に念を押す。城戸は原稿を手にとってしげしげと眺め、木島が最後の部分を書いたことに気づかないことに驚く。蒲生田は官能小説の世界では殿堂入りの人物で、木島は弟子入りして数ヶ月しか経っていないのに、師匠のスタイルを真似ることができ、再びその才能を証明する。
続いて木島が立ち上がり、シンメトリー構図から離れる。木島は縁側に立って、庭に盛んに咲く桜を眺める。一方、画面の右側には三木監督はガラスで鏡の効果を作り出し、廊下にいる二人と二人が直面している景色を見せる。木島は、原稿は先生のためだけではなく、城戸のためにも書いたものだと城戸に言い出す。それを持って、城戸が転職ができるのだ。そこで、木島がシンメトリー構図から離れる。それは城戸と木島の仕事の関係の解消と意味する。(ちなみに、恋人関係は第五話で木島の心の中で解消した)。蒲生田の遺作を完成させることで、城戸を官能小説の世界を、自分と束の間共有していた世界へ送り出したのだ。第五話で城戸と心の中で別れて以来、彼は完全に彼と別れる心の準備を済んだ。それからは70秒も続く二つ目の固定ショットの長回しで、木島がそう言ってから、カメラのピントは後景にいる城戸に移る。城戸は原稿を慎重に鞄にいれ、口を開ける。その間、前景にいる俳優竹財がまだ演技を続け、木島が城戸の声を聞いて目を伏せる様子が鑑賞できる。木島は城戸に未練があり、覚悟が早くしたにもかかわらず、城戸が去るという事実に胸を刺され、相手から別れの言葉を聞こうと必死になる。
城戸が会社を辞めずに続けることにしたと告げると、木島は一瞬驚く。彼は振り返って城戸を見る。城戸は立ち上がり、木島がいる画面=世界に再び入る。すると、二人は最初のディスシンメトリ構図を形成する。城戸は官能小説の世界に戻ってくるのだ。しかし、城戸はそれは木島のためにしたことを話そうとせず、ただ「どうせ上手くいかなかった気がする」と淡々と言う。ガラス障子があり、対称の軸線が少し左に移動し、城戸のいる空間を小さくし、二人の恋愛関係が再び以前のような全くの対等関係に戻らないことを象徴する。なぜなら、この時から城戸の心の中で木島に対して欠けがあるから。木島は恥ずかしくうつむく隣にいる城戸を、または庭に舞う桜を見る。「これでいい」と城戸が言うまでの15秒の沈黙の中で二人は互いの関係を見直している。それは会社の屋上で誓ったことで、それを繰り返して城戸は自分に注意をしている。転職しないことは彼の自己ベストを尽くし、欠けを補うだけだ。
カメラが二人の後ろ姿を撮るようになる。これはやはりディスシンメトリ構図だ。木島は半身を横向きにし、城戸は背中を見せている。まるで、木島の半分素直さと城戸の素直さのなさを示す。二人の肩を越して、庭の桜はまるで二人の間のあふれんとする愛のように、見事に咲いている。しかし、花びらがたえずに散っていくことが、二人の何とも言えない切なさを際立たせる。いくら愛し合っていても、二人は素直になれないのだ。木島は城戸に今後も自分の担当かと探りを入れる。それは、「明日なんてあるのか」と尋ねた後、改めて城戸に二人の関係を決めてほしいと暗に求める言葉だ。それが彼の半ば素直さからだ。城戸が木島を振り返ると、二度目のシンメトリー構図が現れる。この構図は第一話の二人の対峙にも現れたことがある。その時、二人はまだ赤の他人だった。が、いまになると、彼らの関係は第一話と似たような不確かな状態に戻っている。関係が築かれてから、破綻を経て、今はまさに、再構築の時だ。城戸が木島の担当のままであれば、仕事の関係は回復し、再構築の第一歩だ。しかし、明らかに、城戸はこれで満足せず、彼は直そうとし、そこで彼は声を震えながら「それだけか」と聞く。すると、木島は「君は僕といると苦しいんだろ」と反問する。城戸が会議室で発したその言葉は、木島を深く傷つけ、自分の愛が城戸にとって重荷になったように感じた。今になると、木島は鋭く問い詰めをし、城戸を不安にさせる古い事柄を出して城戸に説明してもらおうとする。刺激を受けた城戸はようやく白状しようとするが、次の瞬間木島に割り込まれる。
ようこそ、「インディゴの気分」のファンが一致を達成していない箇所へ。この割り込みは「インディゴの気分」のファンにとって、なかなか不可解である。城戸がようやく木島に向き合い、恋愛関係について話そうとするとき、なぜ木島はそれを断ち切ったのだろうか。とりあえず続きを見よう。この際、木島は2回目シンメトリー構図から離れて、「君って実は、すごくまともなやつなんだよな」と言い、城戸に背中を向けながら部屋に入ってくる。物理的に距離を置くということは、二人は結局別の世界の住民だということを示す。城戸はまともで、木島はわがままだ。私は「第16の間」で、木島は関係解消の最後のステップで、二人を二つの世界に分けると分析した。その時、木島は城戸と彼の真面目に守ろうとする世間の規則に対して強烈な軽蔑を表し、「他人の顔色ばっかり伺って、分の好きな事なんて出来やしない、信念も貫けない、いや、むしろ信念なんか無い」と激しく批判した。が、蒲生田との付き合いで、木島は人が他人を必要とすることがわかる。違う性格の人々が集まって世界ができる。文学を追い求める基礎を作ってくれたのは、あの頑固な父親に違いない。木島が見下した日和見そこ、城戸の優しさだ。誰でも自分のようにわがままをしたら、責任を取り、そしてわがままな人を受け入れる人がいなくなる。また、木島は、その優しさは自己妥協を意味するのをよく知っている。外部世界と打ち解けることは、しばしば自らの欲求を抑圧することを意味し、そのせいで城戸は自分の愛に完全に応えることができない。優しさは木島が城戸を好きになる原因で、城戸が愛を誓うことができない原因でもある。城戸士郎は、木島への優しさもあると同時に、社会観念への妥協(それは周りへの優しさでもある)もある。
人間性を深く理解した上で、木島は「君のそういうところ、僕はすきだよ」と告白する。彼はこれ以上、愛の誓いを求めない。いかなることがあっても木島は愛することにしたからだ。@MiyaNaokiは『行く日々と夜』(注:中国のファンによって書かれた「インディゴの気分」の長編同人小説)の中で、木島が城戸を見返す目を「慈悲」と表現するが、私は大変納得する。木島の告白は信仰の飛躍(注:理由に基づいていないものを信じたり受け入れたりする行為)のようだ。彼の愛は占有を目的とせず、誓いや報いをも求めないで、城戸が彼の望んだ様子になるのを求めない。木島は城戸の本来の姿を愛して、同時に長所でまた弱点の城戸の性質を愛している。それは愛そのもの本来の姿であろう。愛は等価交換ではなく、評価表を持って相手がこれ、これ、これの条件を満たしたと順番にチェックを入れてから決めたものではない。バタイユによれば、それは純粋な感情の蕩尽(とうじん、expenditure)で、その蕩尽こそが、愛を功利的な計算を超えた神性を持たせる。
城戸はこのような愛に応えられない。彼は再び木島に見透かされ、恥ずかしさで彼を推し倒す。彼の手の近くに、後景に原稿がある。城戸は木島の文字のためにコンプレックスを感じて、今また木島の愛に応えられないためにコンプレックスを感じる。二人の関係がかつての対等な状態に戻ることは二度となく、木島が彼を愛しているように、木島を愛することは永遠にできなかろう。ここで、三度目のシンメトリー構図が現れる。ただ、今度は上下の対称だ。城戸は木島を倒して恥ずかしさを鎮めようとするが、木島は城戸のすべての感情を静かに受けとめている。城戸は木島の目を見て、もう一度勇気を出して木島に応えようとするが、木島は城戸を自らの抑圧された感情を言い出すのを導く。しかしこの普通の人は多くのものに囚われている。城戸はついに告白することができなく、また自分の木島に対する激しい感情に直面することができない。彼は大学の時から木島を慕っていて、純粋で自由な彼を慕っている。木島は彼には達成できない理想だが、彼は社会観念を配慮せず世間の目を無視することは到底できない。
木島はまだ言葉に囚われているる城戸と自身のことを鼻で笑う。お互いの人柄をわかっているから、告白なんて言わなくてもいいのだ。「喪服ってジャンルあるよな」と言いながら、彼は自分のネクタイを外し、襟元のボタンを外した。
官能小説はタブーを破ることがポイントだが、死は生きている人間にとって最大のタブーで、葬式や喪服といった死のシンボルに囲まれ、そして死欲に対抗する焦燥感の中で、愛欲がだいぶ昂る。(「確かにムラムラするかも」)。
木島は官能小説家としての深い覚悟をしている。タブーを破り、幻想世界を築き、常識に従って生活する人々に現実逃避と解放のチャンスを与えることこそ官能小説の任務だと悟る。彼は城戸を誘惑し、社会のプレッシャーを背負う彼に、タブーを破って世俗を忘れるチャンスを与える。ちなみに、このような彼が官能小説家になるきっかけは、城戸が前の葬式の帰りに彼を拾ったことだ。
死のタブーを破る形で、木島は城戸を自分と一緒にこの瞬間に生きることを誘う。人間としての最も本能的な欲望に忠実し、愛する人を愛し、過去と未来の負担をそばに置き、人生の計画と計算を止め、本当の自我をもって長くて柔らかいキスを城戸に楽しんでもらう。この行為は、人間の間に存在する理性の壁を打ち破り、今ここに互いの生を満ち足りさせ、愛という名の深い結びつきを生み、現世を超越した神聖感をもたらす。
欧米のアジアドラマ専門オンラインコミュニティvikiの「インディゴの気分」ページで、次のような評論を見たことがある。「このジャンル(BL)にして、「インディゴの気分」やはり悪くないが、最後の葬式の濡れ場は嫌だ。別のところでやればいいのに!」このコメントこそ、葬式の濡れ場のための番外を書くきっかけになる。そうだね、なんで葬式でなければならないか。先にも述べたように、死に対するタブーが、逆に性欲になる。官能小説では、葬式、喪服、未亡人などはそのジャンルの要素になる。「インディゴの気分」の濡れ場では遺言状と遺影まで出てくる (城戸のナレーションによると、これは非常に興奮したそうだ)。では、死欲と性欲の関係とはどのようなものでしょうか。
また、第19の間の番外で。
第19の間(番外編)愛欲と死欲
本番外編は葬式の濡れ場の説明でDVDの「愛欲映像集」8:45-11:22までだ。初めてこの芝居を見るとき、そのあまりにも大胆さと強い美しさに驚いたことを覚えている。DVDの愛欲映像集を入手してから、ドラマの本編がかなり控えめになっていることをようやく知るようになった。
監督の三木が視聴者のなぜここまで撮影したのかという質問に答えて、それは大胆なものではなく、「ただ愛し合っている人同士の行為です」と語る。そう、愛があるからこそ、この芝居には下品さがなく、むしろ神聖さがあるのだ。それは場所にも拘ると思われる。往生した蒲生田のために設置された葬式(蒲生田宅のリビング)で、故人の遺影の注視で、愛する二人が求め合い、結ばれていく。
葬式や未亡人といった死の要素は、すでに日本の官能文学の定番となっている。文化的な源流からして、それは「愛欲と死欲」という古典的なモチーフから来て、フロイトによれば、この二つの欲望はともに人間の本能であり、互いに拮抗しながら転化していく。
私が両者の関係を初めて実感したのは、「おくりびと」を見たときだった。初めて師匠について、ひとり暮らしの老人の孤独死の現場へ遺体を処理に行った主人公が、吐き散らかし、家に帰ってきた妻を見て、妻の服を脱がそうとするのを抑えられない。妻は驚いたが、必死に自分の体の匂いを嗅ぐ主人公を見て、彼を抱きしめる。死の、腐った遺体がもたらした恐怖は、生々しい、温かい肉体によって追い払うしかない。
番外編を書くために、昨日、ジョージ・バタイユの『エロティシズムの歴史』を読み返した。「De l’érotisme, il est possible de dire qu’il est l’approbation de la vie jusque dans la mort」(エロティシズムとは、死におけるまで生を称えることだ))バタイエによると、ポルノが人間にしか存在しない。原因の一つは人間にしかタブーがないからで、もうひとつは繁殖目的ではない性行為(非生産的な「消費」)は人間によってしか行われない。ちなみに、バタイユ自身も官能小説家だ。
この本には「インディゴの気分」の濡れ場と関わる主張が二つ述べられる。
1、タブーを破るポルノは人々が自己決定権を取り戻す方法である。文明が進むにつれて、人間はすべての活動が理性的になり、自己の生命を保全・延長するために多くのタブーが発明されたが、死はその最大のタブーだ。しかし、ランダムな死の予測不可能で、事実上、すべての計画をキャンセルしている。そこから、虚無感が生じる。人々が死の恐怖に駆けられるが、死亡のタブーを破り、本能に従い、単純な楽しみを求めることは、再び自己決定権を握るようになることを意味する。
2、死とポルノは、人間を非連続な存在から連続な存在に変え、閉じられた箇々人の体から解放させ、真の結びつきを達成する。簡単に言えば、孤独感をなくすことだ。死はもちろん意識の消滅によって実現される、ポルノは裸の対面と暴力によって貫かれ、人と人の間の非連続を繋ぐ。オルガズムにおいての自意識喪失は「la petite mort」(小さな死)とも呼ばれる。
この2つの観点から「インディゴの気分」に戻る。私は「第19の間」の最後に木島が城戸を誘惑して社会的なプレッシャーから逃れられない城戸を喪服ジャンルの中で意図的な計画を忘れさせると主張したが、それは第一の観点から来ている。城戸はセックスによって、自己決定権をしばらく取り戻し、彼自身になりきることができ、木島に惹かれた彼の本能に従うことができる。そのため、木島は自分の官能小説に対する徹底した理解を生かして恋人を解放したいと思う。城戸もそれを受け入れ、「正直やばいほど興奮した」というナレーションがついたのだ。
満月のシーンの後に、もう一つ意味深い空ショットが現れる。3つのグラスコップがビール瓶と食べ物と共に机に置かれている。その中の一つが飲みかけている。通夜ぶるまいか。飲みかけの一つと空っぽの二つのコップは、後輩の二人が目上の一人にお酒を捧げるように読める。コップにある液体の振動がセックスの激しさを象徴するという手法は、三木監督に濡れ場でよく使われている。
柱の濡れ場から、室外の空ショットまで、桜は絶えずに散っている。バタイユを読む時、日本人がバタイユを愛読し、湯浅博雄がバタイユの研究書を何冊かも書いたことに気づいた。バタイユの理論は、日本のものの哀れの伝統と通じるところがあるのではないかと思っている。桜の散りはよく人々にもののあわれを感じさせる。一斉に美しい花を咲かせてすぐ落ちる桜は寿命が短いが、一瞬に輝く。
命は無常だから、瞬間の極みを求めるが、結び合いによって生まれる激情は、最高の体験、究極の在り方を求める。蒲生田の死後、木島は自分の愛が実を結ぶかどうかを計算せず城戸に告白する。それは死に向けての愛である。生命もそうだ。あらゆる存在に終わりがあるが、いつ終わるかをくよくよと心配するより、生きているうちに、愛せるすべての瞬間に勝手に愛したほうがいい。
「第8の間」、「第18の間」でも、人は結びつくことによって存在意義を得、究極の弱さによってお互いに必要とされ、個々人の人は生の虚無に直面し、そこから感じる孤独は、愛によって追い払わなければならないと述べた。上の二番目の観点から「愛欲映像集」の中の城戸と木島の「小さな死」を見てみると、二人のセックスの後のキスの意味がわかろう。それは間違いなく愛の証である。愛は人と人との最も深い結びつきで、蒲生田の死がもたらした暗い空気を完全に吹き飛ばした。官能小説大家が葬式で二人に結んでもらうという遺言を残す所以であろう。
このシーンの最後、夜中に目を覚ました木島は、城戸がすぐそばにいることを確認し、彼の胸をそっと枕にして、穏やかで確かな心の鼓動を聞きながら、嬉しそうに微笑んだ。主題歌「End of the World」で歌われているように、「あなたがここに生きてることがいまはただ嬉しい。」
では、また第20の間で。