今日書いたこと(2024/10/31)『イギリス史』にファイナルファンタジーと真央ちゃんを重ねて

2015年のあの頃に、真央ちゃんについて「なんでタチアナ・タラソワがいなくなったの」というのが、人々の「自然な声」だったはずである。今まで当たり前のように「いた」ものが「いなくなった」わけだから。「じゃあなんでいなくなったの」という話になるのが自然な流れなのに、そうならなかった。

2015年のあの頃に、真央ちゃんについて「自然な声」を封じるような何かの力を私は確かに感じ取っていた。明らかに「欠け」が生じたのに、それについて誰も語らないことの違和感。その「穴」を埋めるようにある人為的な力が働いて、「風の通り道」がふさがれ、ある「一色」で表面が塗りつぶされた。

2015年の真央ちゃんのあの「欠如」について、「それについては言わない」のが「大人」だ、とでも言うかのように、それが「物わかりのいいファン」として当然であるかのように、それについて黙っていた。この「大人の対応」に人々が終始したせいで真央ちゃんは「回復」できなかったと私は直観する。

最近『イギリス史』(みすず書房、1973年)を再び読み始めた。9世紀のデイン人の侵入のところから。その頃のヴァイキングの活動から11世紀のノルマン征服のところまでを通して読んだ。高校の「世界史」の教科書で読んだのをきっかけに、この時期のイギリスの歴史に私は特別の興味を抱いてきた。

前に(2017年2月)読んだときもうすうす感じていたが、やはり9世紀のデイン人の侵入から11世紀のノルマン征服にかけてのイギリスの歴史が、「ファイナルファンタジー」の運命、「野村哲也」が登場して以降のその歴史と重なる気がする。そして今は、真央ちゃんの運命とも重ね合わせて見ている。

すなわち、ブリテン島における「アングロ・サクソン」が9世紀のデイン人の侵入によって「アングロ・デイン」になり、11世紀のノルマン人による征服によって「アングロ・ノルマン」になった。いわば彼らの「魂の半分」がそうやって入れ替わっていった。そのたびに「以前の何か」が決定的に失われる。

つまり、そのような「魂の半分」の入れ替わり、それに伴う「以前の何か」の決定的な喪失、そういうものが歴史において生じるということ。それを「自らの歴史の核心的なものとして認める」かどうか。それを「認める」ことが、彼らの「成文化されない憲法」の底流にある。しかしわれわれはそこで異なる。

その種の「魂の入れ替わり」や「喪失」の上で「今の新しいファイナルファンタジー」は成り立っている。しかし、それについて誰も特別に語らず、何らかの「暗黙の了解」によって新しい事態がいつの間にか「既成事実」として固まる。「それについて触れない」ことが「大人の対応」のようになってしまう。

「今の真央ちゃんの状況」も同様である。そして「内部」の人間が「外部」に向けて、その肝心なテーマについて「説明」をしないことに俺はいらだってきた。「説明をしない人間」に対する私の伝統的な反感は、このように培われてきた。

「外交官(diplomat)と歴史家(historian)がいないシステムはだめだ」と私はつねづね思う。内部の事情について外部に向けてしかるべき言葉で語り、あるいは書ける人材。それがいないことが、「ファイナルファンタジー」でも真央ちゃんでも、その体制の腐敗の現れであり原因である。

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