「放課後のエチュード」から考える、BL作品における「肉体」について(ネタバレ)
バレエ漫画といえば、山岸凉子先生の「アラベスク」が真っ先に思い出される。
まさかBL作品で、バレエものを読める日が来るとは。
(アラベスクにも若干そんな関係性は書かれていたけど、メインではなかった)
このたび、昼寝シアン先生の「放課後のエチュード」を2巻まで読了した。
絵が綺麗、肉体美!バレエ情報もたいへん詳しく書かれていて、勉強にもなる。読み応えのある作品であった。続きも楽しみである。
神々による考察や感想はすでに多くあると思うので、私は私なりの切り口でこの作品の良さを書いていきたいと思う。
テーマは「肉体」だ(そんな、あからさますぎやしないか…)。
というのも、本作の「肉体」はことごとくダブルミーニングなのである。
見延は、一宮が身体で表現するダンス(バレエ)に魅了される一方で、肉体そのものにも欲情していく。
一宮は、見延の肉体を羨み、ダンサーとしてそれを欲する一方で、やはりその肉体を身の内に取り込むという方法で欲情していく。
ダンスを表現する器としての「肉体」
ダンスとは無関係な「肉体」
読者も、もしかしたら主人公の二人も、もしかしたら作者でさえ
「いったい、今、どんな風に「肉体」を欲しているのだろう?」
というのがわからなくなりそうなのである。
肉体に向けられる欲望とは…いったい何なのだろうかという問い…これは深い。
さらには、その二人に対峙する存在である二見。彼の存在もまた、BL作品における「肉体」というものを、深く考えさせてくれる。
ということで、いつものごとく、ネタバレ満載で、考察にも満たない勝手な妄想を書き散らしていく。不快に思われる方はUターンをお願いしたい。
また、記事中の画像はすべて、©リブレ・昼寝シアンからの引用である。
1.肉体に宿る「才能」への欲望―見延の場合
最もわかりやすいのは見延。
一宮が半裸で「ダンサーとしての肉体を晒した」ところを目撃し、その「肉体」が表現するものを見たいを欲し、魅了される。
「ダンサーとしての肉体」に欲情した、ということがポイントであろう。
これはBL作品の概念を逆手に取っているといってもいいかもしれない。
「男性であること」は、この場合あまり意味を持たない。
一宮が瀕死の白鳥を踊った直後の場面も印象的だ。
見延は「瀕死の白鳥に息を吹き込みたくなった」から、かなり乱暴なキスをしてしまっている。そして、それは彼の性欲を惹起していたことに、あとから気が付くのだ。
つまり、一宮の「肉体そのもの」への欲情は後発であり、あくまでも、「肉体によって表現される才能」に欲情しているということなのではないか。
もちろん、関係が深まるにつれて、ただ単に肉欲として行為に及ぶことももちろんあると思うのだが、始発としては「才能」を欲していることは、重要であると思っている。
もっと言ってしまえば、「才能を表現できる形」であれば、どんなに色気がなかろうと、どんなに汚かろうと、かまわない…ということになる。
まあもちろん、ダンスというジャンルである以上、色気や清らかさは必要なわけなので、一宮はあの容姿なのだし、それで才能を表現できるのだが。
いずれにしても、見延は「肉体そのもの」にだけ欲情するのではない、ということになる。
2.「肉体そのもの」への希求と欲望―一宮の場合
一宮の場合も、わかりやすいのは瀕死の白鳥の場面である。
キスをしてきた見延に対して
「その身体、触らしてっていってんの」
と発言している。
回想の中で二見に触れられている場面でも、
「この身体があったなら」
と思いながら、二見の身体に触れている。
その根本にあるのは、「何入れるにしても、器がきれいやないとねぇ…」という女将の言葉にある、価値観である。
一宮が思うきれいな器とは?見延と二見の「肉体」とはなにか。
いわゆる「持っている」身体である。バレリーノとしての条件を満たした、大きな体躯だ。
言わずもがなだが、小柄な一宮が欲するのは、その「持っている肉体」なのである。
自分が持たざる、理想的な肉体への渇望が、スライドする形で肉欲として表出している。
もちろん、二見と見延ではその意味は少々異なっている。(好意の有無という意味で)
しかし、本質は同じであるようにも思う。
気持ちがなくても二見と接触を続けた一宮は、その行為の中で「これと同じ肉体を得られる未来」というものを見ていたのかもしれない。それは彼の「舞台で踊る未来」でもある。
そして、バレエやダンスを捨てかけていた一宮の前に表れた見延の「肉体」を見ることによって、一宮は踊ることへの情熱を取り戻す。やはりそれは、見延の「肉体」を通して、「舞台で踊ること」を見たからではないかと思うのだ。
見延と同様、一宮もやはり「肉体そのもの」だけに欲情するのではないようである。
その肉体の向こうに、「踊ること」が透かし見えることが重要なのである。
3.自己愛と分身への欲望―二見の場合
二見はもう少し複雑だ。まだ彼自身のバックボーンが明らかでないため、推測の域を出ないことを先に謝っておきたい。
事あるごとに二見は、一宮に対して、「俺とお前は同族だ」というようなことを言っている。
その真意が明かされるのは、二巻だ。
「お前はバレエの人間だ。クラシックバレエを踊ってこそ、お前の才能は光を放つ」
「そういう身体に、俺がお前を作り上げた」
…なんとも衝撃的なひとことである。
(先生の画力の素晴らしさで余計ゾクゾクする)
もちろん、幼いころからの個人レッスンで「作った」、という意味にもとれるが、
中学生くらいから恒常化していたであろう、二人の肉体関係を示唆する言葉とも思える。
まだバレリーノとしての理想的な体躯を持たない年齢の一宮に、「持っている肉体」である自分を触れさせることで、「こうなるんだ、こうならねばならないのだ」と刷り込んだようなものである。
つまり、二見は一宮を、まさに「分身」のようにしたいということなのであろう。
なぜそうしたいのだろうか?ここはもう憶測にすぎないが…
自身の才能に限界を感じたから?
あるいは
海外のダンサーの中で、孤独を感じているから?
あるいは
自分の肉体が滅んだあとも、何かを残したくなったから?
…まだなんとも言えないところである。
「二」見、「一」宮、という名前もまた示唆的だ。
一宮は「二見の二番煎じになるのはごめんだ」と言い放ったが、二見としては
「自分と同じ、だけど、さらにそれを超える肉体」を作りたかったのかもしれない…
どんな理由であろうと、そこには二見の「自己愛」があることは否定できまい。
でなければ、自分が善しとする、「クラシックバレエの肉体」を作ろうなどとは思わないだろう。
二見の一宮の「肉体」に対する欲望は、自分自身の「踊ること」抜きにしては、惹起されないものと考えていいだろう。
4.鏡像か、分身か―同じ「肉体」に求めるもの
三者三様の「肉体」への欲望を確認したところで、この三人の関係性を比較してみたい。
これはBL…いや、もっと大きな括り、「人が人を欲すること」を描くにあたって、重要なポイントだと言っていいだろう。
見延と一宮は、「自分に欠落した部分を持つ相手を求める」「埋め合う」二人である。
一宮は二見に対してもそんな感情を持っていたようだが、双方向ではなかった。
前述したように、二見が求めるのは「自分と同じ」ものなのだ。
つまり、二見と一宮は、「自分と同じ相手を求める」「重なる」二人である。
本作と同じくBLの名作である「どうしても触れたくない」(ヨネダコウ作品)でも、性別を抜きにして、「異星人みたいな人に惹かれる」のと「友達の延長で好きになる」の対比が書かれていたが、それに近いかもしれない。
恐らくこれは、番などを描く際の、永遠のテーマなのだろう。
特にBL作品においては、「同じ肉体の構造を持つ者同士」なのだから、そもそも後者になりがちなところを、多様な関係性に昇華させていくのは、作家の皆さんの手腕のたまものということになろうか。
いや、あるいは…「肉体」が同じだからこそ、精神面での差異が際立つ、というのが、BLの醍醐味とも言えるかもしれない。
さて、本作に話を戻そう。
もう少し言い換えれば、
見延と一宮は「鏡像」
二見と一宮は「分身」
とでも表現できようか。
(二見の場合は一方的なのだが…)
そして、一宮が選んだのは「鏡像」のほうだった。
向かい合って、反転している。
だからこそのパドゥドゥなのだ。「写し」ではない。
そして、「分身」であれば、相手を見なくとも理解できるだろうが、「鏡像」の場合はそれができない。
相手を見て、それによって自分がわかる。ことごとく向かい合って「見ること」をしなくてはならない。
なるほど、一宮が「見てろよ」と言ったり、見延「見てほしい」と思うのは、二人が鏡像関係にあるからなのかもしれない。
そして、マイム告白を見たから、一宮の心は見延と通じたわけである…「肉体」を「見た」のだ。
しかし不安もある。
二巻でも言及されているが、男性同士のパドゥドゥなど、舞台の上でできるはずはない…と。
舞台の上で、二人は向かい合えない。
ここをどう乗り越えるかが、本作の肝であろう。
とはいえ、一宮は以下のように感じている。
「舞台に立っていても、遠くから眺めていても、頭で、指で、呼吸で、一緒に踊ってしまうんだ」
…ゆくゆくは、二人はこういう関係になっていく、ということだろうか。
たとえ、同じ舞台で向き合えずとも、離れていても、
共にパドゥドゥを踊っている…と。
それはもう「肉体」を超越していくということではないだろうか。「肉体」という、ある種の枠、隔たりをこえて、それこそ「ひとつに溶け合う」ように。
「肉体」から始まる本作は、「肉体」を超えた、二人の関係性を描こうとしているのかもしれない。
…ということで、私なりに「放課後のエチュード」を読んで考えたことを書き散らしてみたわけだが、なかなかの暴論である。申し訳ない。
BL作品においては、避けて通れない「肉体」という問題を、多角的に描こうとした意欲作ではないか、と思ってしまったのである(そんな意図はないかもしれないが…)
とかく、恋愛要素が中心となるBL作品においては、「肉体」に一義的な意味しか付与できないようなところがある。それをあえて、ダブルミーニングにし、本質を暴いていこう…としているのではないかと思うのだ。
一宮が、見延が、そして二見が、いったいどんな結論を出していくのか、今のところまったく予想がつかない。三巻では新キャラクターも出てくるようで、そうやすやすとハッピーエンドにたどり着くような気配もない。
最終回を迎えるころには、BL界の新たな扉を開くような作品になっちゃったりするのでは?という期待を込めつつ、追いかけていきたいと思っている。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました!