「個別最適で」「誰一人取り残さない」教育???・・とかなんとか。
教育にというテーマ関しては誰もが一家言を持ち、しかも言いたい放題になりがちなので、なるたけ口を慎みたいと自分には言い聞かせてきました。余計なことを言って変に目を付けられたくないし(^_^;) でもどういう巡り合わせか、学校をつくる側になってしまったので、そうもいかなくなってしまったところもあります。知らず知らず人の気に障るようなことも言ってしまうだろうと気をつけてはいるのですが・・・。
ただこれだけははっきりと宣言(大げさな)したいのは、教育にはすべてにあてはまるような正解はどこにもないということ。どんなに良き考えも万人にあてはまるものはありまへん。
だから、「まおい学びのさと小学校」も選択肢の一つに過ぎません。最近は時々全肯定されるようなありがたすぎる保護者の方に出会ったりもするので、何もかもここならうまくいくというわけではないのですよ、と説明しなければならない時もあります。逆に全否定される方もなくはありません。きっとそれなりの信念があるからでしょう。ただ、選択肢がないということはとても不自由なことだから私たちは私たちが考えるような学校を作ろうとしただけなのです。「この世界にもっと多様性を!!!」
教育の世界では流行語的に使われるフレーズが常に現れては消えていきます。たいていは、文科省のお役人などがひねり出したキャッチフレーズなのですが、さしずめ今なら「個別最適な学び」だとか「誰一人取り残さない教育」とかいったところでしょうか。
コロナ禍でうまくいかない学校の学びをなんとかしたいという苦心の言葉のように思えます。その言葉自体間違っているとは思っていませんが、何でも一度は疑ってかかる自分にはやはり少し引っかかるものがあります。
「個別最適な」だけでは、一人ひとりバラバラで教え合いも学び合いもイメージできないと指摘されるのが目に見えているので「個別最適な学びと協働的な学びの一体的な充実」などという話になるわけだけど、イヤイヤそんな難しそうなこと本当にできるの?って、つい思ってしまいます。いいことばかりいっているとなんかウソっぽくなるというか・・・
そもそも「最適」って必要?とか。もちろん「最悪」じゃ嫌だけど、最適でなくても「まあまあ」くらいでもいいんじゃないか。だって、最適とか考えると、ついついそれで苦しんだり追い詰められたりするケースって起こるんじゃないの?それに、最適じゃないから逆に学びの世界が広がったりするかもしれないし。などとどんどん外れた方向へと考えが向かってしまうわけです。自分でもただの天邪鬼か、へりくつ野郎だと感じたりもしますけどね。
「誰一人取り残さない」というのも基本的には立派な理想でケチの付けようもない素晴らしいフレーズなわけですが、SDGsのお題目ならともかく、そこに「教育」を結びつけられると、なにか、取り残されたら「悪」みたいな発想につい引っ張られて、教える側も教えられる側もずいぶんと窮屈で不自由で最後は強迫観念みたいになってしまうのではないかと、ちょっと心配です。むしろ取り残されても幸せになれるような世の中をめざしてくれる方が暮らしやすいんじゃないかとかね・・。
とりあえず、取り残されそうになった子どもたちに、無理矢理詰め込もうとして追い込むようなことだけにはならないで欲しいと願うのですが、学校という所はたいてい知らず知らず追い込みがちに終わるものです。先生たち、まじめな人が多いから。
人間として疎外されたり差別されたりという意味ではもちろん「誰一人」取り残してはいけないのだけど、いわゆる勉強とか、学びには取り残しも取りこぼしもよくあるわけで、それは必ずしも「悪」でも否定的なものでもないのではないかと思うわけです。いろいろな子どもたちがいるのだし、たとえ取り残されたとしても勉強が好きになってくれる方がもっと大事だと思うし・・・。やはりただの天邪鬼なんでしょうかね。
ただ、かっこいいキャッチフレーズのウラには相も変わらず、何か一つの物差しで勉強ができるとかできないとか決めつける、そんな思い込みがじっと潜んでいる気がします。そもそも人は知識を獲得するために生まれてきたわけではないのだから、取り残されるも残されないもないと思うのですが、おかしいですか。「人は学ぶことを楽しむために生まれてきたのだ」(おっ、これちょっとかっこよくない?)
そんな学校になるといいなぁ・・ (村重)