語り継ぎは、大河の流れだ
もし妻と一緒に神戸市から西宮市に引っ越していなかったら、北山緑化植物園に小さな蘭亭があることを知らなかったかもしれない。それと同様に、もし中国人ではなかったら、この典故が紹興の蘭亭や王羲之の『蘭亭の序』に由来することも知らなかったかもしれない。小蘭亭は1985年に西宮市と紹興市が友好都市を結んだことを記念し、1987年に建てられたものだ。紹興から招かれた5名の職人が半年かけてその建造物を作り上げた。
千年を超えて、ずっと語り継がれる蘭亭は実に異文化交流の象徴だ。今日になって見直しても、非常に先鋭的な発想だ。しかし、小蘭亭は年月を経て、やがて老朽化し、西宮市は取り壊しを決定した。現在、当時紹興から運ばれてきた蘭亭の石碑が元の場所に保存され、敬意を示している。そのことについて、X(旧ツイッター)に書き込んだ。
昨日、西宮蘭亭文化推進基金のイベントに招かれ、会稽山紹興酒の酒造メーカーの楊剛社長と蘭亭石碑の前で対談を行った。以下の内容は学生が記録したものだ。
妻とぼくは西宮市に20年間住んでおり、よくここで散歩します。この石碑の前を通るたびに、時空を超えた文化の脈を感じます。王羲之は書聖と称され、中国だけでなく日本でも高く評価されています。江戸時代の僧侶、良寛も王羲之の書法を学び、淡々とした名利を求めず、極端なミニマリズムの先駆者としてよく知られています。彼の生涯は貧しくも詩文に長け、400以上の漢詩を残しました。1968年のノーベル文学賞受賞者である川端康成は、良寛を日本の精髄として称賛しました。良寛が亡くなってから26年後の1905年、天津生まれで浙江省原籍の李叔同は日本に留学し、「李岸」の名で東京美術学校の油画科に入学しました。彼は良寛の書法を知り、大いに影響を受けました。音楽家、美術家、そして中国の演劇の開拓者である李叔同は最も輝かしい時期に突然出家し、法名を弘一としました。弘一の出家と魯迅の世俗生活は学界でよく議論されるテーマで、両者は同じ道を歩む者と見なしている学者もいます。魯迅は李叔同の書法を高く評価し、『中国小説史略』の中で彼を「才能と知識に富む」と称しました。東京美術学校は現在、東京芸術大学という名称に表示が変更され、その美術館には今でも李叔同の自画像が大切に保管されています。これは彼が日本で6年間暮らし、洋画を5年間学んだ後の油画作品であり、この絵を最初に発見したのは、西宮市大谷記念美術館の前任館長、越智裕二郎です。彼は生前私にこう語りました。「当時、東芸大の倉庫でこの絵を偶然にも発見した時、布で包まれていて、ほこりまみれでした。李叔同の自画像を見た瞬間、全身に電気が走ったようで、良寛の世界に引き込まれた気がしました」
楊社長との対談の詳細は、後日ネット配信でもご覧いただける。実は、昨日の天気があまりよくなく、対談中に小雨も降り始めた。その時、きものを着た三人の日本人学生が中国人の書道先生と石碑の前で書道の練習をするために招かれたから、雨が降ると大変だと思った。しかし、ほぼ同時に楊社長と『蘭亭集序』の「仰観宇宙之大、俯察品類之盛(宇宙の素晴らしさを仰ぎみたと同時に、地球上の全ての命の大切さを思い知った」について話していると、雨は静かに止んだ。このような神秘的な体験は、おそらく王羲之だけが知っているのだろう。
晩餐会で主催者に招かれ、ご来賓のみなさんの前にスピーチした。その一部をここに紹介する。「先ほど、日本の学生がぼくにメッセージを送ってくれました。彼女は今日、とても感動したと言いました。毛先生のお招きに感謝します。私はまだ飲酒の年齢には達していませんが、父に紹興酒を勧めます」とのこと。
異文化交流の伝承は一つの語り継ぎだ。古今をつなぎ、多くの人々の知恵を集めて、絶えずに流れ続ける川のようなものであると、ぼくは信じている。これからも西宮市と紹興市の友好関係を深めることを期待したい。