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傘を借りた時のお話

これは新型コロナウイルスが全世界で猛威を振るっている最中のちょっといい話だ。その頃、ぼくは自宅にいる時間が増え、妻と毎日散歩をするようになった。風雨もいとわず、欠かさず歩いていた。

年の瀬にスマホの「運動と健康」の年間レポートをみて驚いた。2020年だけで2283.2キロも歩いて、77996キロカロリーも消費していたらしく、レポートには「ため込んだカロリーを惑星探検の動力に変えよう」という言葉まで添えられていたほどだ。少しだけ時代錯誤な気もするが、心を静かに保ち、世の中の煩わしさから解放されたいと願う今のぼくには、どこか心に響くものもあった。

ある日の夕暮れ、いつものように散歩に出かけたが、突然雨が降り出し、みるみるうちに本降りになった。傘を持たずに外出していたわれわれは、近くの家の軒下で雨宿りをせざるを得なかった。一向に雨はやむ気配がなく、気温も急降下。寒さが身に沁みた。

その時、その家の玄関先に傘立てがあり、傘が一本立てられているのに気づいた。「あの家にお願いして傘を借りようか」というと、妻も賛成してくれた。そこでドアベルを押すと、すぐに応答があった。「すみません、通りがかりの者ですが、玄関先の傘をお借りしてもよろしいでしょうか?」と尋ねると「どうぞ、お気をつけて」と赤ちゃんが泣いている声が聞こえることから、おそらく主婦の方だろう。われわれは傘を借り、無事に帰宅することができた。

翌日は晴天だったので、夕方散歩に出かけるとき、借りた傘を持ってその家を訪れた。妻は「お礼に洗剤でも買って行こう」というので、スーパーに寄って包装が綺麗な洗剤を買った。そして、その家まで歩いていき、傘を傘立てに戻し、洗剤をその横に置いた。わざわざドアベルを押すのは気が引けたので、そのまま立ち去った。

夕焼けがとても美しく、いつものように気持ちの良い散歩道だった。その後も毎日同じ時間に散歩を続け、夕焼けをみるたびに心が安らいだ。

数日後、再びその家の前を通った時、妻が「あら、傘立てに紙が貼ってあるよ。それに赤い花も描いてある」といった。よくみると、紙には「傘をお借りした方へ、洗剤ありがとうございました。毎日が良い日になりますように」と書いてあった。

きっと、われわれが傘を返した日か、翌日に書かれたものだろう。毎日通っていたのに、今まで全く気が付かなかった。改めて、人と人との間で直接会わずにやり取りをすることの温かさを実感した。毎日が本当に良い日だ。

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