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土に還る

夏休みを北京で過ごした後、親戚や友人たちと別れの挨拶をして、ぼくは日本に帰る飛行機に乗り込んだ。離陸してまもなく隣りの席に日本人らしいお爺さんが座っているのに気がついた。恍惚とした表情で、寂しそうに真っ黒い喪服を着ていた。膝の上に白い布に包まれた小さな箱を置いていた。その形からみて、それはおそらく骨箱だろうと思いあたったが、ぼくはそれ以上に見ようとしなかった。

北京大興国際空港

機内は会話もあまりなく、エンジンの騒音ばかりが耳に飛びこんでくる。しばらくすると機内放送で客室乗務員の柔らかい声が流れてきた。「この飛行機はただいま、日本の上空に入りました。いまから、長崎、大分、瀬戸内海、そして関西国際空港に到着する予定でございます。」

ぼくにとって久しぶりの日本語だったからか、新鮮にも聞こえた。隣りの席のお爺さんは何かはっきりとしない声でぶつぶつ言いはじめた。「ケンちゃん、帰ったぞ。やっと帰ったぞ…」

独り言のように、また誰かに訴えるかのように聞こえてくるが、お爺さんの声はそれほど調子外れでもない。飛行機の騒音に重なっていたせいもあり、微かに聞えてきた泣き声もすぐに消えてしまった。静かなところで聞けば、その声は悲しすぎるかもしれない。きっとそのとき感情を抑えきれなくなったのだろう。隣に座ったぼくはこの時、心の中では慰めたいと思いながら、口は開かなかった。日本上空を飛んでいる日航機だけが大きな音を発している。

骨箱はお爺さんの息子だろうか?中国旅行中に事故でも遭遇したのか?それとも急病で倒れ、病院に運ばれたが、手遅れだったのか?勝手にあれこれ推測してみた。しかし、これは推測ではなく、恐らく遺骨は日本のどこかの墓地に安置されるに違いがない。ぼくの知るかぎり、遺骨が墓石の下に埋葬されるとき、この箱も要らないはずだ。そして遺骨はこれからも徐々に日本の土に還されていく。

飛行機は無事に関西空港に到着した。自分でもよくわからないが、三時間ほど前に離れたばかりの北京にまで、なぜか心の底から思いを馳せた。

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