仏像とぼく、そして中国
どうして仏像はこんなにぼくの気持ちがわかるのだろう。
お寺を参るたびに、仏像を仰ぎ見て、つくづくため息をついた。このようなことを書くと不思議に思われるかもしれない。仏像は人間の顔をしているから、人の気持ちがわかるのはあたりまえ、と考える読者の方も多いはずだ。
ところが、人間というのは自分の気持ちを都合のよいものにすり替えてしまう、奇妙な能力を備えている生き物だ。仏像に向かって拝む時の優しさの底に潜んでいるのがあざとい優越感であったり、軽蔑と称しながら形を変えた劣等感であったり、時には意地悪な態度を示しながらもそこに人間同士として寄り添う気持ちが隠れている。こんなふうにして、人の心の奥にたどり着くにはまるで迷路のような道を通らなければならないが、それは面倒な作業であって、時々、ぼくはあきらめそうになる。無の境地に早く着きたい。そんなときも、仏像はいつも、間違いなくそこに導いてくれる。
最近の中国を見ていると、街や路地の中に、しばしば仏像が配置されているのが見うけられる。北京国際空港の、壁一面を飾る洛陽の仏像群。上海の紹興路の、出版社のポスターに画かれた仏像の数々。広州では、普通の家にきらめく仏像の飾り、などなど。少し古い時代を思い起せば、大都会も農村も毛沢東の肖像がいたるところにあり、中国のイメージ形成は彼の顔がなければすべて語れないものであろう。いわゆる、文化大革命の時代だ。しかし、今改革開放以後の中国人の目線に映るのは数多くの仏像、悠久なる歴史の中に描かれた、あるいは念仏のもとに造型された仏像となるだろう。
仏像は、いま中国にとって最も日常的で、また常に仏教の文化を象徴するものとして引き合いに出されることも多い。しかし、仏像をもう少し深く考えれば、仏さまの人間像を「個人」として正面から捉え見据えはじめたのはおそらく最近になってからではないのか。
これは中国にかぎっての話なのかもしれないが、仏像は過去には例のないほど、強迫的に自分についてこだわっているかのように見える。
四川省の楽山大仏像に比べ、ごく普通に見かける今時の仏像には少し不安要素が混じっているように思える。それは、現代社会を心許なく頼りなく感じる中国人の心、例えば個を表象する「仏像」がもしかしたら誰とでも入替え可能の着せ替え人形のように記号と化す不安に怯えている心を、含んでいるからかもしれない。