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ぼくの平成という時代

二〇一九年五月一日、日本は新天皇即位を祝福し、一九八九年から続いた平成の時代が終わった。ちょうど三〇年になるが、八〇年代に日本に留学したぼくたちの世代と時期がぴったり重なった。言い換えれば、ぼくの日本での生活を「平成三〇年」と表現することができるものだ。

「時代と個人」というハイブリッドテーマに最初に気付いたのは、文藝春秋のベテラン編集者からの提案だった。ある日、彼はわざわざ東京から神戸にやってきて、ぼくと会うと単刀直入に、「私の平成時代という自伝を書いてほしいのですが、どうでしょうか?」と尋ねた。

具体的に書くかどうかは当時の雰囲気の中で決めかねていたが、一つの事実に驚いた。というのも、ぼくたちの話の中で、平成三〇年というのはまるでハリウッド映画のように、個人的な名シーンが次々と浮かび上がってきたから、これが書き下ろすための動機となるかどうかはよくわからないが、記憶の中でこれほどまでに興奮したことはなかった。それこそ「平成」というキーワードの引力によるものだったかもしれない。

実際のところ、その場で承諾しなかったが、後日内心の衝動で何度もパソコンの前に座り、キーボードを叩きながら自分の経験を書いた。当然のこと、時代と個人が共存し、一緒に進むことになる。どんな個人でも時代の産物であろうから、個人と集団は互いに照らし輝いている。次の場面は、すでに書いた原稿からの抜粋だ。一つの時代の証言として、一個人の経験は記憶の中から消えることは、まずない。

平成元年、一時帰国のため、上海虹橋国際空港にて

一九八九年は平成元年だ。冬は異常に寒く、風はまるでナイフのように吹きつけてくる。当時、日本で唯一ぼくの心を温めてくれたのは、目の前のことではなく、ベルリンからの国際電話だった。妻は同じ北京出身で、ぼくが日本留学を果たした翌年に、ドイツに留学した。新婚の後、ぼくたちは二つの国で離れて暮らし、手紙だけの交流をしていた。ぼくは日本国内で最も安い封筒を買い、その上にボールペンで「PAR AVION」と書いて国際郵便として送る。赤いポストに手紙を投函するたびに、妻の笑顔が見えるような気がした。

いつものパタンだが、手紙に日本時間の何月何日の夜何時に、「この電話番号にかけてください、待っています」と書く。具体的な日付は覚えていないが、手紙を出してから少なくとも二週間後に、電話のやりとりになる。

ぼくは貧乏学生だった。電話機を買うお金がなく、日本で電話を開通するには高額な「加入費」を支払わなければならなかったから、これは想像もできなかった。ところが、下宿先の近くにカフェが一軒あり、そこを通るたびに地域猫に遭遇し、時折立ち止まって眺めていた。何度も通ううちに、店主に会う時もあった。彼は太眉で親切なおじさんで、ぼくにコーヒーを飲みに入らないかと勧めたが、お金を惜しんで何回か断った。その後、彼はまたぼくを招待してコーヒーを飲ませ、現状を尋ねた。ぼくは妻がドイツで留学しているから手紙のやり取りには約二週間かかると話した。すると、彼は「ここには公衆電話がありますから、ドイツからの電話をここで受け取ればいい」と言った。

これはぼくが手紙を書いて妻に電話をかけるように頼んだ理由だった。手紙を出した後、カフェの店主にも伝えた。彼は日付と時間を小さなノートに書き溜め、「必ず来てくださいね」と笑って言った。

ベルリンからの電話が来る日、ぼくは数分早めにカフェに入り、そこには多くの人々がいた。外では雪が降り積もり、公衆電話が見当たらなかった。すると、店主が近づき、ドアのそばのテーブルを指差した。その上にはピンクの公衆電話があった。よく見ると、「電話故障中」と書かれた紙が貼ってある。彼はぼくにウインクしてふらりと消えていった。

これは店主のご好意だとぼくはすぐにもわかった。感動した。その時、電話のベルが鳴り響き、周囲の人々の視線が一斉にぼくに向けられた。背を向けてベルリンからの妻の声を聞いた瞬間、涙が溢れた。

平成十二年の冬、店主の加藤さんと再会

ここまでが「平成」の始まりで、忘れがたいものだ。あの時代には携帯電話がなく、学生の下宿先に電話がないこともそれほど珍しくなかった。それでも今日に至るまで、ピンクの公衆電話を見るたびに、なぜか心が温かくなる。

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