自己修復するためのジュエリー
今、秋のアクセサリーを作っているところで
はて、去年はどんなものを作っていたっけ?と画像を見返していたら
写真のチェーンリングが出てきた。
14金のチェーンに小さな天然石を沢山つないだもので、
指の上に複雑な色と質感で織ったタッセル(房)を乗せるようにして着けてもらう指輪。
「これ、いいなぁ」と思うとき、私たちは何に感応しているのか
この指輪、あらためて見ても手前味噌だけど「いいなぁ」と思う。
作ってからずっと後、これ他の誰かが作ったもの?くらいに時間がたってから振り返って眺めた時、
自分が作ったものを「やっぱりいいなぁ」と思えるというのはとても幸せだ。
それは買って手にいれたものも同じで
作家ものや骨董のうつわや家具、こまごまとした暮らしの道具とかなんでもいいのだけど
何度見ても、何年たっても、毎回心がときめいてしまうものと
そうはならずに色褪せてしまうものの違いって一体なんなのだろう?
なんだか生きているだけで疲れる…そんな時代にふさわしいモノ
私がふだん扱う素材は、
天然石や古い時代に作られたビーズのデッドストックだったり、
とても古いものか、自分で素材から作っている。
私にとって心地いいから使うのだけど、その「心地よい」の正体って
【素材の力がどのくらい強く残されているか】なんじゃないかと思っている。
たとえば、土から来たもの。
人の側よりもずっと深く、自然の側とつながっている自然のプリミティブな生命力。
たとえば、遠い時を経たもの。
当時素材にまとわりついていただろう、人の評価や理由や意味を長い時間の中でそぎ落とし、
今やほぼ自然物となって価値も用途も意味も漂白されて
時の中で衰えなかったものの力だけで、そこに居るようになったもの
そういう【純粋さがあるもの】に触っていることの作用ってあるに違いない。
現代は、とにかく他人の期待や都合や顔色を読むことばかり薦められて、人はなんだかいつも疲れさせられているし
道を歩いていてもネットワークにつながっていても
欲や関心をたくさん集めたい目的で作られた
一見素敵なプロダクト達が、
物語や理由や機能をベタベタと無分別に着こんで
「さぁ、これこそ貴女を変えてくれる必要なものです!」
どうです?欲しいでしょう?必要でしょう?
どこからでも四六時中プレゼンしてくる。
なんだかぼーっとしていると急き立てられて手にしたあと、
実は思惑にすごく何かを奪われてしまうし、ぐったりと疲れさせられてしまう。
他人の欲の熱視線という荒いノイズに私たちは絶えずさらされ、
また自分たちもノイズを出したりしている。
それでも生きている限りは
そのことに関わらずにからめとられずに生きるのが今やもう難しい。
だから、たまには無所属アノニマスな、純朴な素材に還りたいのだ。
私たちに必要なのは、自分を修復するひとときをもつこと
価値や意味や理由といった、
この社会に存在するための条件を要求されることから自由になりたい。
何の圧力もかけられずにそこに居られるということ
誰にも負荷をかけずにそこにあるということ
そしてそれが美しい周波数となってあたりにやさしげに微かに放たれていたなら、それはすごく素敵だ。
「存在する理由をこちらに要求しない」
そういうものに触れて、ふっと緩みたいのだろう。
自然に足を踏み入れれば、
植物も動物もふりそそぐ陽射しも、体を通りすぎていく風も
誰も彼もがこちらに何も求めてこない。
観察されないし、評価もされない。
件のリングも誰かのために作ったというより、単に石の色が美しかったのでつい買ってしまったのがきっかけで
美しいものがそこにあるからには、できるだけ何時でも眺めていたくなり
そういうものを好きなように花束や房のように束ねて、それぞれがまた色んな角度の美しさを見せているのはいいな…という、ごく素朴な思いつきでできたものだ。
そういう世界とつながっている素材に触れることで
社会で摩耗した自己が修復されてゆき、
潤い、心の手足が伸ばせるような気がするのだろう。