『雪の雫・雨の音』の拡大解釈に基づく歌詞改編
原作はリズムゲーム『Muse Dash』に収録されている下記楽曲である:
私個人には『the music Laboratory cube』の『snow dAnce』や『canopy of stars』に匹敵する程には「切ない楽曲ラインナップ」入りしてる。
しかし、この楽曲の歌詞は日本語ではあるものの、どことなく違和感のある日本語の並びである。
誤解しないで頂きたいのは、歌詞を書いた『夢紗』氏やボーカルの『东京塔』氏、ひいては作曲・編曲の『天游』氏に対する軽蔑ではない。
むしろここまで情景を映像で想像できるほどの日本語を、生粋の日本語話者でも無いであろうにも関わらず詠んだ歌詞、そして多少発音に困る言語であろうにも関わらず情緒溢れる歌い方をし、また曲制作はもちろん編曲により歌い易く仕上げて作品を作った彼らには感服する。
作詞・作曲のズブの素人の私がこの歌詞を鍛錬するのは烏滸がましいだろうし、加えて多少独自解釈も含んだ改編をするのは、我ながら自意識過剰な気はする。ましてや有能な誰かがとっくにやっていそうなのだが。
ただ、楽曲を購入する金銭も無い程に生活費に困窮している筆者なりの、無礼かもしれないが感謝の意思表示としてこの改編をここに認(したた)める次第である:
改編歌詞
雨音に 打たれてた
人混みの 駅前立つ
「おかえり」と
甘すぎる夢 でも
今 独りだけ
急げばまだ 逢えるはず
夢が描(か)く お遊戯は
何時(いつ)終わりを告げるのかしら
教えてください
街路灯(がいろとう)の下で
隠された寂しげな
面影を見つめている日々が
冷たく痛むけど
だって好きだから
嘘だとしても許し
長い夜越えて
寂しさを 紛らわせても
返事は来ない
だって嘘だから
弄(もてあそ)ばれても 大丈夫
手のひらに 残された
温もり覚えてる
雪がまた 降りしきる
抑(おさ)えれぬ 戯言(たわごと)さえ
耳を塞いでも
木霊(こだま)していて
「もう放さないで」
月明かりに照らされていた
長く伸びる人影に
声を掛ける度に
怖くて 躓いて
蟠(わだかま)りの隙間
駆け寄ってくる貴方
手をのばし 涙を拭(ぬぐ)って
「もう泣かないで」
と呟いた
雪渡りの道で 歩み続ける
私が 違う私になり
貴方を遠ざけた
だって好きだから
忌まわしい想い抱(だ)いて
踏みにじられても
信じ続けて 何度でも
追いかけてみせる
だって愛してる
違う道を選んでも
もう一度 貴方を見せて
雪の花の下(もと)で
蛇足:原文と変えた語句・変えなかった語句
以降、この改編歌詞についての歌詞に詰めれなかった意図をダラダラ書く。
頭から原文と改編の転載をして、その下に変えた意図を記す。
また思慮の過程を多少論理学的に筆者が読み解かせたいため、数理論理学の記号を用いた意図解説をさせて頂く:
原文の意図を察する限りでは、
「急げなきゃ、間に合えぬ」⇒「急がなければ間に合わない」⇒「急げばまだ間に合う」
という様に捉えた上で、原曲のボーカルのリズムに合わせつつ、
「主人公の抑えられない願望が読者に伝わりそうな文言」
を考えた上で、
「急げばまだ逢えるはず」
と改編した。
次に、
「盲目の逐う遊戯が、いつ終局になるのか知らぬ」
の文言は;
『恋は盲目』とは言うが、それをそのまま綴るのは芸が少ない
「遊戯」は「遊び・戯れ合い」とかの意図があるのだろうけど、演劇の舞台とも捉えれそう
「終局になるのか知らぬ」⇒終わりを主人公は知らない∧後の『教えてください』の句⇒主人公はその思いが終わってしまう事は覚悟はしていそう
という筆者の独自解釈で、
「何時(いつ)終わりを告げるのかしら」
と、疑問形の文言に改編した。
この箇所で主に行った改編は『トルツメ(取って詰める)』である。やり過ぎた気が少しばかりある。
「灯火」のままでも良かったのかもしれないが、楽曲のイントロの自動車のエンジン音や雑沓から察するに、
「割と都市部の場面では無かろうか。少なくとも、『果て無き草原で風がピュピュンと独りぼっち』な場面では無いだろう」
という解釈に至り、「街路灯」と改編した。
次の文節は、中国語(台湾含む)の発音と近い事に重きを置けば原文の方が発音しやすい気がする。また「隠された寂しげそうな」という言い回しは、
「主人公自身が確信を持てない、自身が見た情景の受け取り方」
を如実に表した強調表現に思ったが、「隠された寂しげな」と断定する言い回しにする事で読者が感情移入しやすいかと思い至った次第である。というのも;
「隠された寂しげそうな」⇒隠された(主人公の仮定の「そう」(寂しげな))
という述語解釈を行ったからである。
ここの句の最後の「痛み過ぎだけど」は、筆者個人はかなり遊んでしまったと自負する。
痛みにも「鋭く刺さる痛み」や「広く焼ける痛み」がある。強引ではあるがジャケットイラストから冬場の物語と筆者個人が断定し、
「真冬に素手で佇(たたず)んだ時の手の悴(かじか)み」
の痛覚を連想し、
「冷たく痛むけど」
という改編をした。
実は解釈の解説を書いてる途中で力尽き始めている。語彙力が低下する程度には尽きてきてる。
サビである。ここは主人公の葛藤と受容が入り乱れている様子を強く残したかった。筆者は原文でその様に解釈した。
しかし筆者個人がかなり汚れた性分の為、
「慰さめて」
という語には下世話な印象を覚えてしまった。
という事で、
「慰めて」⇒「寂しさ」を「紛らわす」
と分解して改編に落し込んだ次第である。
妙な話だが、Aメロの語彙選択には夢紗氏と筆者自身に共通する感覚があった。
なので、ここの句に関してはほぼシンパシーに基いて改編したと言っても過言では無い。論理式記号を混ぜた日本語を入れてまで解説するのが疎ましい。しかしそういう切り捨て方は読者に対して無礼と存ずるので少し解説する:
「雨雪」⇒「霙(みぞれ)」と言う事が日本語話者では多い。
しかし解釈によっては「雨」∨「雪」とも取れる。
筆者個人の誠に勝手な解釈になるが、
「雨の季節が過ぎ、雪が降る季節となった」
と解釈して、
「雪がまた、降りしきる」
と改編した。
「絶やさえぬ」⇒「絶やさ得ぬ」⇒「絶つ事の適わない」
と展開して「抑えれぬ」と置換した。
「鳴り響いて」⇒「音声として捉えれる独り言」に捉えれる。しかし本当に「口を動かして発した独り言」なのだろうか?
筆者自身が独り言を声帯や口を動かさずに頭の中で文字を連ねて独り言をベラベラ喋ってる性分なので、ここではあえて『内言』として解釈し、
「木霊して」
と改編した。
まず、上記の改編になる前の改編が以下である:
月明かり照らす
長く伸びる影に
声を掛けて駆け寄る度に
怖くて 躓いて
おそらくこの改編をした時の筆者は、
「同一曲のループ視聴のし過ぎ」
でリズム感を無くしていたのだろう。
また筆者の悪い認知バイアスなのだが、
「場面の過度な抽象化・汎化」
により、
「実は主人公の記憶の反芻でもあるのでは? ならもっと抽象的な表現に……」
という発想に至っていたのだと、過去の筆者自身を推察する次第。
なのでここはごく単純に、
「接続詞を差し変える」
だけでよかった。この記事を書いている途中で気付けて安堵している。
正直に言おう。ここは遊びが過ぎた。
『ゴスペラーズ』の楽曲『ひとり』の歌詞表現の影響を受けて、「ジレンマ」を「蟠り」と改編。
しかし漠然と原文の、
「ジレンマの隙間で走り込む貴方」
という文言が気に入っており、
「主人公が『思いを伝えようか、それとも……』と葛藤している時に『貴方』が主人公に掛け寄ってくる情景」
を、主人公の一人称視点で思い浮かべてしまったから尚更である。
また原文では「荊棘(いばら)」という語で表した、
「自分も『貴方』も傷付けてしまうかもしれない。けれど真実(遊びで『貴方』が主人公と付き合っていた)を知ってしまったら私はもう立ち上がれない。だから私は思いを告げずに歩き通す」
という必死ながらも繊細過ぎる心理を筆者が勝手に想像した為、
「この繊細さは……『荊棘(いばら)』程には頑丈ではないだろう!!」
という拡大解釈に基き、
「積雪の表面だけが人が歩ける程度に溶けて凍る自然現象」∧「主人公自身がそんな『下は落ちたら上がってこれない崖の亀裂かもしれない道』を歩んでいる」⇒「雪渡りの道」
と遊んだ次第である。
なお、上述の自然現象は少なくとも北海道の牧草地帯などでは冬の風物ではあるものの、『雪渡り』という命名では無い。
『雪渡り』という宮沢賢治の童話が同じ自然現象を扱っており、かつ2000年代の小学校では教科書に載っていた作品である事により筆者が、
「『雪渡り』って、もう自然現象の名称と言っても通じるだろ」
と飛躍した発想で改編した。
実は最後の最後で原文の解釈が難しかった。
この原文で「僕」が指している人物は誰なのか。
ここまで一貫して、
「主人公はあくまでも女性」
を意識してしまっていた事が災いしただろうか。
しかし「見せて」という語句から「主人公の願望」とも捉えれる。
困惑の末に出した結論は、
「主人公の願望」
と解釈し、
「僕」⇒「貴方」
と改編する形に至った。
これは完全に、
「高校時代の漢文の授業で得た知識」
だけでは足りないし、
「日本以外の漢字を用いる国々の言語の教養」
がほぼ皆無の筆者では、適切な解釈ができなかった。故に私の教養・素養の無さが、場所は違えど常に露呈するオチになった。
あとがき
正直な所、かなり強引な改編だったとは自負する。ましてや筆者は恋愛経験皆無の野郎なので乙女心なぞ知れぬ存ぜぬである。
ましてや最後の句では筆者の教養や素養の無さによる自爆をしたのでは無いか、とも思う。
また、
「コード進行や作曲に素養や教養のある方々」
からしたら、
「完全にコード進行に惑わされて歌詞の拡大解釈してる」
と軽蔑されるのだろうと被害妄想も膨らむ。
上述の軽蔑文句に対して開き直りの文句を戯けてしまえば、
「どうせ惑わされるなら徹底的に惑わされなきゃ制作者に失礼」
という持論がある。
一・二次創作の夢想妄想が頭で木霊してる性分なので、こうやって形にしなきゃ社会に順応する為の頭の空き領域も確保できないのだ。察してくれ。